2011/7/7

白井晟一の原爆堂計画  原爆堂計画

7月5日の目黒区美術館のI学芸員の論考の話で、白井晟一について少し触れました。
白井晟一の《原爆堂》計画については、これまで何度か学芸員日誌でも紹介しています。

http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/578.html
http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/1444.html

I学芸員は、《原爆堂》計画がどのように進められたか、そして頓挫していったのか、という経緯について、詳しく調査されているところです。
そのI学芸員のご教示によれば、丸木夫妻が“原爆美術館”を構想していると最初に報じられたのは、1954年8月5日付『朝日新聞』夕刊でした。

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東京に“原爆美術館” 丸木、赤松両画伯が計画

“原爆画家”丸木位里(五二)(無所属)、赤松俊子(四二)(女流展)夫妻=東京都練馬区石神井谷原町二ノ一四八八=は共同制作の「原爆の図」を中心とした常設原爆美術館の建設を計画、近く全国の有志に協力を呼びかけるという。現在完成している「原爆の図」は十部作のうち七部。三部作から四年越しに全国で五百回以上の移動展を行い、最近終った。これらを歴史的記録作品として一般に公開したいというのが夫妻の念願だ。

 プランによると予算二千万円、場所は東京。資金は丸木氏が半切か一尺五寸の横物の日本画一枚、赤松さんが三、四号の油絵一枚、合せて二枚を一口として一万円で売って集めようという。陳列画は「原爆の図」のほか、広島の被災者が描いたものもふくめたいといっている。

丸木位里氏の話 地方では最近ようやく広島や長崎の原爆がどんなに悲惨なものだったかわかってきたようだ。この水爆時代に一人でも多くの人にみてもらいたいと思う。建設の設計は依頼中だが、有名人や団体の名をならべるのは避けて出来るだけ独力でやりたい。


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おそらく白井晟一は、この頃に丸木夫妻の計画を知り、独自に《原爆堂》の設計をはじめたものと思われます。
ところが、1956年3月5日付『朝日新聞』には、次のような記事が出ています。
長い記事ですが、興味深く、重要な証言も含まれているので、全文掲載することにします。

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平和を祈る「原爆堂」 丸木・赤松夫妻中心に建立計画
設計図だけは完成 場所も決まらず行悩む

原水爆禁止の運動が世界中でくり展げられているなかに、原爆犠牲者の霊を慰め、永遠の平和を祈念する「原爆堂」建立の計画が進められている。設計は建築家白井晟一氏の手によってすでに完成し、その清新壮大な構想は、いま建築界の話題となっている大作。だがこの「原爆堂」果していつ、どこに陽の目を見る――「原爆堂」をめぐる人々の動きも複雑で、実現への道はなかなかに遠いようだ。

原爆堂を建てようという話は「原爆の図」の作者として知られる画家丸木位里・赤松俊子夫妻=東京都練馬区石神井谷原町二ノ一四八八=を中心に持ち上った。一昨年四月、人を介してこれを知った白井晟一氏=東京都中野区江古田二ノ九四一=は、平和に対する人類の強烈な願いを表現しようとこの設計にとりかかり、昨年ようやく設計図を完成して、丸木・赤松夫妻に手渡した。エジプトの太古のたくましい遺跡から想を練り起したという設計は、美しい水をたたえた池の中に黒いミカゲ石でたたんだ本館(美術館)と、図書室、展覧室、ロビーなどをおさめた「への字形」の別館とが池の底の地下道によって結ばれ、円筒のラセン階段を上って四角い陳列場に出るという構造。石積みの四角い陳列場を黒い円筒の柱で持ち上げた形は、原子エネルギーを表現したものという。

丸木・赤松夫妻らはこの原爆堂に「原爆の図」をはじめ、広島、長崎の土、原水爆禁止の署名帳(現在三千四百万人を突破)原水爆を題材として作られた文学、彫刻、絵画、音楽などの芸術作品などをおさめ、平和の記念碑にするという計画だ。
ところが、丸木・赤松夫妻を取巻く人たちの間には「この建物はモダンすぎる」「民族的な感情が出てないので親しみにくい」などの意見があり白井氏の案を強く押せないなどの事情もあってか、設計図を手渡してからあと、夫妻と白井氏との間には連絡がとだえがち、当面の推進体となる原爆堂建立会もいまだに発足していない状況だ。敷地ももちろん決まっていない。こうしたなかに当の丸木・赤松夫妻は来月、中国平和委員会の招きで「原爆の図」を携えて中共に旅行することになっており、この分では建設のメドがつくのはいつのことかわからぬ、という。
夫妻は建設費として五千万円の募金を計画、建立会の発起人として朝倉文夫、湯川秀樹、河井弥八、片山哲、木辺宣慈、久保房之助、高津正道、平塚らいてう、藤田藤太郎、吉川英治各氏らの承諾を得ているというが、実現はそう急ぐ必要はないという考え方――最悪の場合は敷地だけでも見つけ、掘立小屋を建てて住み、一生かかっても大事業を完成させるといっている。

一方白井氏は「建立会」がいつまでたっても発足しないなら、知り合いのアンドレ・マルロー、イ・エレンブルグ、カール・ヤスパース各氏をはじめ、外国の思想家、建築家、教育団体、社会団体などに訴えて、資金を内外に求めてでも完成したい、といっている。

設計者白井晟一氏の話 丸木・赤松夫妻は設計に共鳴はしても、設計の意図が高度なものだったため理解できないのじゃないかと心配している。僕の一生の念願として世界に呼びかけてもぜひ完成させたい。

丸木・赤松夫妻の話 私たちは白井氏の設計に賛成している。結局あの設計に落着くと思う。全国民の思いをこめたものにしたいために、発起人会を作るといっても、普通のやり方じゃどうかとの意見もあるし、急いでみてもやれぬ。いい仕事なら無理をしなくとも熱心な協力者が出てきて必ず機運が向いてくる。そういう時機を待てばいい。募金も少しずつ始めている。


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白井晟一は《原爆堂》の設計図を制作したものの、実現に向けての動きがなかなか進まない様子が、記事から伝わってきます。
白井晟一と丸木夫妻の間に、微妙な思いの食い違いがあったことも読みとれます。
結果的に、この《原爆堂》計画は実現せずに終わりましたが、なぜ頓挫したのか、正確な事情は今のところわかっていません。
記事にもある通り、1956年には《原爆の図》(10部作)が中国へ渡り、その後、約10年にわたって世界20カ国以上を巡回する大規模展覧会へと発展していくので、《原爆堂》計画は機を逸して自然消滅したとも考えられます。
最後の「急いでみてもやれぬ。いい仕事なら無理をしなくとも熱心な協力者が出てきて必ず機運が向いてくる。そういう時機を待てばいい」という「丸木・赤松夫妻の話」は、おそらく位里の言葉でしょう。非常に位里らしい思考だと思います。
そして、その「時機」が来たときに、夫妻が私財を投じて実現させたのが、現在の丸木美術館であった、ということなのでしょう。

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現在、京都工芸繊維大学工芸資料館にて「白井晟一 精神と空間」展(8月11日まで)が開催されています。
京都工芸繊維大学(当時は京都高等工芸学校)は、白井晟一の母校でもあります。

そして、白井晟一さんの御子息が、原爆堂と現在の福島原発事故を結びつけた興味深い論考(京都展のシンポジウムの草稿)をブログに掲載されていますので、こちらの方も紹介しておきたいと思います。
http://shiraiseiichi.jugem.jp/?eid=116
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