2011/6/12

1955年秩父原爆の図展調査  1950年代原爆の図展調査

午前中、埼玉県立浦和図書館に資料調査へ。
以前に地域資料室に調査を依頼していた1950年代の埼玉県内の原爆の図展について、新しい資料が出てきたのです。

1955年8月26日から29日まで秩父市産業館ホールで開催された「原爆の図展」です。
同年8月27日付『埼玉新聞』の記事を紹介します。

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異常な感激と戦りつ
秩父 話題の原爆図展開かる


○…丸木位里、赤松俊子両画伯の原爆図展は二十六日から四日間毎日午前九時から午後八時まで秩父市産業館ホールで開かれている。一部作だけでも縦六尺、横二十四尺の幽霊の図をはじめ死〔原文ママ、「火」の誤り〕、水、虹、少年少女の五部作の原画全部が掲げられ、二十年八月六日午前八時十五分一瞬にして大広島全市を灰塵に帰した姿が題名の角度から画かれ、雨中詰めかけた市民も異常な感激と戦慄をおぼえ、戦争は二度と繰返すまいという感情に支配された。
○…図展開会にあたり主催者の秩父地区原爆の図運営委員長大野孟子女史始め後援の婦人会、地区労協のほか丸木、赤松両画伯も前夜から来秩、徹夜で会場を準備した。この計画は七月はじめ話が持ち上り市公民館、教育委員会、一部婦人会が主催を引受けたが、中途で背後に思想的な動きがあるというデマのためにためらい、このため会場に予定した産業館ホールすら貸す貸さぬでもめ開会期も変更に変更を重ね、一時は計画もご破算という苦境に追い込まれたが、関係者の涙ぐましい努力が結実、漸く開会の運びとなった。
○…大野会長は開場にあたり「関係者の異常なお骨折でやっと開くことが出来こんな嬉しいことはありません。この図展が市民の関心を集め、戦争の恐ろしさを繰返すまいと誓うのに少しでもお役に立ったと信じています」と語った。


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「中途で背後に思想的な動きがあるというデマのためにためらい」という部分に、原爆の図展開催の苦労が感じられます。
1955年といえば、すでに原爆の図三部作(《幽霊》、《火》、《水》)はヨーロッパを巡回中の頃。
秩父展には、もうひと組再制作された三部作(現在は広島市現代美術館蔵)と、日本に残っていた第4部《虹》、第5部《少年少女》を組み合わせて展示していたのでしょう。
新聞に掲載された会場写真に写っているのは第3部《水》ですが、母子像の背後の被爆者の行列の特徴が、明らかに〈再制作版〉と判別できます。

〈オリジナル〉の三部作が海外に渡った1953年夏以後も、丸木夫妻の手もとに残る〈再制作版〉三部作や第4部以後の作品によって原爆の図展は継続されていたのですが、社会の注目度は次第に薄くなり、新聞などに取り上げられる機会も減っていたので、この秩父展は〈再制作版〉の展示状況を知ることができる貴重な資料です。

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午後は、宇都宮中央女子高校合唱部・吹奏楽部の震災復興祈念コンサートに招待されていたため、宇都宮へ移動。
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