2011/6/9

『西日本新聞』“50年代GHQ統制下 巡回展164回敢行”記事掲載  掲載雑誌・新聞

2011年6月4日付『西日本新聞』の長崎県版“LOVE&PEACE 平和を ナガサキ”欄に、“50年代GHQ統制下 巡回展164回敢行”との見出しで、《原爆の図》の初期巡回展に関する特集記事が掲載されました。
以下は、記事からの一部抜粋です。

 初期3部作の全国巡回展があったのは、連合国側が原爆関連の報道や言論統制をした「プレスコード」が敷かれた時期。メディアによる報道は少なく、主催者側も資料を残していない。夫妻の手を離れて開かれた展覧会も多かった。
 2008年1月、丸木美術館の岡村幸宣学芸員(36)が、夫妻のアトリエから俊さんのメモが添えられたガリ版刷りの展覧会記録を発見し、調査に着手。当時の地方紙を調べ、展覧会にかかわった人から証言を得た。判明したのは50年から53年まで、北海道から九州で少なくとも164回もの展覧会があったことだ。岡村さんは「市民が原爆被害の実態を知ることができない時代に、多くのことを伝えた」と評価する。


長崎県版の記事なので、1952年11月に佐世保市公会堂、53年1月に長崎市労働会館で展覧会が開かれ、島原市や崎戸町(現西海市)での開催記録が残ることも紹介され、84年8月に2回目の「原爆の図・長崎展」が開催された際に関わった活水女子大の服部康喜教授の「80年代以降の巡回展は加害の視点が加わったのが大きな違い」という指摘も掲載されています。
実際、第14部《からす》を使った2回目の長崎展のパンフレットには、「被爆の体験を単に被害者的立場のみにとどめることなく、加害者として受け止め」という言葉が記されています。
記事は、最後に次のような文章でまとめられています。

時代を越え原爆の図は生き続けている。その理由を岡村学芸員はこう説明する。
「夫妻は直接原爆を体験していないから、たくさんの人の思いや悲しみを受けとめ『記憶の器』になった。だから見る人の心に訴える強さが作品に生まれた。原爆の図を見ることは、戦争を考える大きな入り口になるんです」


   *   *   *

また、同じ紙面には“「反原発」も貫く 遺志継ぎ緊急企画展”との見出しで、原発分の電気料金の支払いを拒否した丸木夫妻の思いや、開催中の企画展「チェルノブイリから見えるもの」も紹介されています。
記事は、常設展示室に展示されている《水俣・原発・三里塚》の説明文に「平和になった時、原子爆弾は原子力発電所に化けて出ました」と記されていることや、館内は電気をできるだけ使わないように自然光や風をふんだんに取り入れていること、原発分の電気料金の支払いを拒否した際に俊さんが「原発を止めないと原発に殺される」と美術館ニュースに書いていたことなどをとりあげています。
また、「チェルノブイリ展」についても貝原さんの絵の展示の様子がカラー写真入りで紹介され、「芸術は論ではなく情に訴える。チェルノブイリから何を学び、学んでこなかったか考えるきっかけにしてほしい」という岡村の談話が掲載されています。

   *   *   *

そして、“私にできること”というコラムには、“大事な美術館手伝う”との見出しで、ボランティアの両岡健太くん(29)の談話も紹介されていました。
2004年夏に学芸員の資格取得のため実習に訪れて以来、ボランティアとして美術館を支えている両岡くん。取材して下さったS記者が来館された日も、両岡くんが駅までS記者を車で送ってくれて、その際に取材を受けたそうです。
談話の後半部分を抜粋して紹介します。

 たくさんの人がいれば、意見が違って当然。互いにきちんと向き合って話し合えば、争いは避けられ、平和につながるのではないでしょうか。この美術館は、たくさんの人たちが集まって自由に意見を交わせるのが魅力。大事な場所が存在し続けられるよう、今後も支援を続けたいです。

大きな特集記事を組んで下さった西日本新聞社のS記者には、心から御礼を申し上げます。
本当にありがとうございました。
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