2011/5/20

中村正義の美術館/赤松俊子《母と子》寄贈  作品・資料

午前中は川崎市麻生区にある中村正義の美術館へ。
現在開催中の企画展は、「中村正義 顔の世界展」(5月29日まで)。

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2009年に丸木美術館の企画展でも《顔》を中心に中村正義の絵画を紹介したことがありますが、今回の展覧会は、今まで観たことがなかった蛍光色で人物を描いた屏風画を軸にしながら、さまざまな《顔》を観ることのできる興味深い内容でした。
今年は、11月1日から12月25日まで名古屋市美術館にて「中村正義展」(2012年2月19日から4月1日まで練馬区美術館に巡回)が開催されるそうです。
中村正義のドキュメンタリー映画『父をめぐる旅』の制作も順調に進んでいるそうで、こちらも楽しみです。

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午後は、丸木美術館に寄贈して下さるという赤松俊子(丸木俊)の絵を受け取りに八王子市へ。
戦後すぐに描かれたという油彩画は、俊子の妹とその娘の母子の姿を描いたものだそうです。

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作品を実見するのは初めてでしたが、この画像は記憶にありました。
1948年11月22日から12月16日まで東京都美術館で開催された「第2回日本アンデパンダン展」に出品された《母と子》です。
この展覧会の際に制作された作品絵葉書は現存しています。

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そして、作品を所蔵していたのは、戦後すぐに眞善美社という出版社を興した中野達彦でした。
中野達彦は7年前に亡くなり、今回は御遺族の方が寄贈をして下さることになったのです。

眞善美社は、戦後の数年間だけ存在し、間もなく倒産しましたが、安部公房や花田清輝、埴谷雄高、野間宏などの重要な作品を次々と出版するなど非常に興味深い仕事を残しています。
2007年に世田谷美術館で開催された「世田谷時代1946-1954の岡本太郎」展で、眞善美社の刊行物が詳しく紹介されていたことを思い出します。

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1949年9月には赤松俊子の『絵ハ誰デモ描ケル』(写真右)が眞善美社から刊行されました。
この書籍は俊子の最初の著作でもあります。
中野達彦は俊子と気があったようで、この頃とりわけ親しく交流し、1947年に刊行された宮本忍著『気胸と成形』(写真左)が第1回毎日出版文化賞を受賞した際に、お祝いとして油彩画を贈られたのだそうです。

中野達彦の父親は1943年に東条倒閣運動の首謀者として検挙され、割腹自殺した政治家の中野正剛でした。しかし、政治家に嫌気がさした達彦は父の後を継ぐことなく、母方の祖父で文化勲章を受章した評論家の三宅雪嶺の出版事業を弟の泰雄とともに引き継いだそうです。ちなみに、祖母は歌人の三宅花圃、叔父は画家・詩人の中野秀人という文芸一族でもあります。
達彦はドイツ語が得意で、眞善美社の雑誌『綜合文化』1947年12月号(第1巻第6号)には、彼が加納元の筆名でハイネの長編叙事詩「アッタ・トゥロル」を翻訳し、赤松俊子が挿絵を描いた作品が掲載されています。

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この頃、俊子は夫の丸木位里らと前衛美術会を創設し、1947年5月に東京都美術館で開催された第1回前衛美術展の後、7月より隔月で銀座の天元画廊で「街頭展」を開催していました。
1947年11月の前衛美術会第3回街頭展には、俊子がハイネの「アッタトロール」の挿絵27点を出品したとの記事があります(1947年11月3日付『東京民報』)。
この街頭展で展示された挿絵は、『綜合文化』のために描かれた作品だと思われます。

余談になりますが、後に山村工作隊などの政治的な文化運動で知られる前衛美術会は、丸木夫妻が中心となっていたこの時期は美術の民衆化に主眼を置き(二人は1950年6月頃に前衛美術会を退会)、1949年9月の第7回まで続いた天元画廊の街頭展では、裸体デッサンや油彩画の小品、絵本、ポスター、挿絵などの出品が中心でした。
1948年4月21日から26日まで第6回街頭展として開催された「赤松俊子滞ソ小品展」の芳名帳には、中野達彦の名も記されています。

同時代のさまざまな文化活動へのつながりも感じさせる中野達彦と赤松俊子の交友。
その歴史を象徴する油彩画《母と子》は、今後、画面の修復を行った後、来年2月11日より丸木美術館で開催する「生誕100年 丸木俊展」で紹介する予定です。
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