2011/1/23

丸木位里と水木しげる  調査・旅行・出張

先日、大原社会問題研究所へ資料調査に行った帰りに、八王子市夢美術館で開催中の「〜水木しげるの世界〜ゲゲゲの展覧会」を見てきました。

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妖怪漫画『ゲゲゲの鬼太郎』で知られる水木しげるですが、南方戦線に出征して左腕を失っており、実体験をもとにした戦争漫画も多数手がけています。
今回の展覧会でも、『総員玉砕せよ!』の原画が展示されていました。

実は、丸木位里と水木しげるは同じ学校の門をくぐった“同窓生”のようなのです。

『丸木美術館ニュース』第104号でも紹介していますが、位里は広島・飯室村の小学校を卒業後、しばらく各地を放浪するような生活をしており、1919年頃に大阪の知人宅に居候して天王寺の上本町にあった「精華美術学院」という美術学校に通っています。

位里の画文集『流々遍歴』(岩波書店、1988年刊)によれば、「普通の家よりは大きい程度」の私立学校で、校長の松村景春は「当校は入学試験もなければ規則もない、勉強したい者は毎日来て勉強すればよい」という方針だったそうです。
位里は美術の学校に入ったことが嬉しくて、早速学帽に「美」という徽章をつけ、スケッチブックを持って天王寺界隈を得意になって歩き回ったとのこと。
もっとも、この学校は主に図案を教えていたので、画家志望だった位里とは方向性が異なっていたのですが、位里はこれも何かの役に立つだろうと思いながら、毎日通ってデッサンの勉強をしていたようです。

とはいえ、いつまでも知人宅に居候をしているわけにもいかず、アルバイトを見つけて間借りをはじめたのですが、貧乏暮らしのためすぐに栄養不良で脚気になって広島の実家に帰ってしまったというので、それほど長いあいだ通学していたわけではなさそうです。

そして、位里が通ってから20年ほど後の1938年に精華美術学院の門をくぐったのが、鳥取県出身の武良茂という青年。のちの漫画家“水木しげる”です。
彼の回想によれば、無試験の学校を血眼で探し回ってようやく見つけたこの学校は、「立派なのは名前と校門に掲げた看板だけ。建物は掘っ立て小屋のような貧弱さ」で、たった1人のひげを蓄えた小柄な初老の男が「校長兼教師兼事務係」。授業内容も「デッサンとは名ばかりの実践的な図案講習会のようなもの」で、「江戸時代の寺小屋のような感じ」。しかも「エライ画家になるんだと思い詰めて、一心不乱に独習を重ねてきた私の方が、もったいぶって教える先生より腕が上だった」ために、失望して程なく学校には行かなくなったというのです。(『水木サンの幸福論 妖怪漫画家の回想』日本経済新聞社、2004年刊)

なにしろ入学試験がない代わりに、卒業しても大学受験資格も得られないという学校。
松村景春という校長先生にも、どことなく頼りなくて怪しげな印象を受けますが、少なくとも1919年から1939年頃までの20年間は学校が運営されていた(しかも、位里と水木しげるの回想が類似していることから、同じような経営方針で)ということにまず驚きを感じます。

位里にしろ、水木しげるにしろ、残念ながら、この学校で学んだことが後の表現に重要な影響を与えているとは思えません。
しかし、勉強が不得意で中学進学を断念した2人の青年が、そして、絵を描く以外の仕事はどれも長続きしなかったという大らかな性質まで似ている“天性の画家”たちが、ともに「無試験で絵を学べる」という経営方針に引き寄せられるように、おそらくは「自分でも受け入れてもらえる」という希望を抱いて、同じ学校にたどりついたということには、決して偶然では片付けられない、どこかユーモラスな感動を覚えます。

そして、彼らが後に、地を這うような視点から、戦争という“不条理”を見事に描き出し、他に類を見ない作品に昇華させたということにも。

果たして松村校長は、自分の学校から、芸大からは絶対に輩出されないであろう特異な表現者を2人も生み出していた(勝手に育ったのかも知れませんが)という事実を知っていたのかどうか。

精華美術学院については、今のところ、ほとんど資料が見つからないのですが、今後、機会を見て調べていきたいと思っています。
ちなみに、『完全版水木しげる伝(上)戦前編』(講談社漫画文庫、2004年)には、ひとコマだけ、精華美術学院の髭の校長先生が登場しています。
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