2010/10/4

【富山出張初日】瀧口修造の墓  調査・旅行・出張

10月8日から富山県中新川郡上市町の西田美術館で開催される企画展「この素晴らしき世界 丸木スマとアール・ブリュット」の準備のために、2泊3日で富山へ出張することになりました。
展示作業を行うため、いつもボランティアで展示を手伝ってくれる画家のMくんと二人旅です。

大宮駅から上越新幹線に乗って、越後湯沢駅から北越急行の特急「はくたか」に乗り換え。約3時間で富山駅に到着しました。富山県を訪れるのは実は初めて。
前日の朝から丸木美術館でスマ作品21点の梱包搬出作業を行い、この日は西田美術館に作品が到着するのですが、開梱までは行わないというので、まずは富山駅から普通列車に乗り換えてひと駅目、呉羽という小さな駅で降りて、瀧口修造の墓へお参りに行くことにしました。

   *   *   *

瀧口修造(1903-1979)は、日本を代表する詩人、美術評論家として知られ、シュルレアリスムなどの前衛芸術運動を推進して多くの芸術家に影響を与えました。
戦前には丸木位里も参加していた美術文化協会の理論的支柱として活動しており、位里も水墨の抽象表現を確立する上で少なからぬ影響を受けたと思われます。

瀧口修造の墓は呉羽駅から徒歩20分ほどの大塚という集落(彼の生地)の龍江寺にあります。
富山に向かう途中ずっと降り続いていた雨は、呉羽駅に降りた頃にはすっかり止み、空には瀧口修造の手がけたデカルコマニーの連作を思わせるような雲が広がりました。
この光景には、雲好きの画家Mくんも「北陸の雲は違いますね」と思わず茫然。

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国道を渡り、地図を見ながら集落のなかの小道を歩いていくと、想像していたよりずっと小さなお寺の門がありました。

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瀧口家の菩提寺だったそうで、門をくぐるとすぐに瀧口家代々の墓と書かれた墓碑がいくつか見えます。
その中を抜けた左奥に、ひっそりと「瀧口修造」と記された小さな墓碑がありました。

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黒御影石の墓の正面には自筆の「瀧口修造」、裏面にはダダイズムの巨匠マルセル・デュシャンの筆による「Rrose Sélavy」、横に小さく夫人の「瀧口綾子」の名が刻まれています。

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「Rrose Sélavy」とは、デュシャンが使っていた偽名であり、瀧口修造が晩年に想像した架空のオブジェの店の名前でもあります。

 奇妙な話だが、いつの頃からか、私に「オブジェの店」を出すという観念が醗酵し、それがばかにならない固執であることに気づきはじめた。いうまでもなく私は企業家や商人とはまったく異なったシステムで、それを考えていたのだ。

 私はまずその店名と、その看板の文字を、既知のマルセル・デュシャンに依頼すると、かれは快よく応じてくれた。こうして、その店の名は“Rrose Sélavy”(ローズ・セラヴィ)ということになった。これはデュシャンが1920年頃から使いはじめた有名な偽名で、あのレディ・メードのオブジェに署名するためだったらしいが、またかれがしばしばこころみる言葉の洒落にもこの署名を使っている。

 「セラヴィはフランス語のC'est la vie(これが人生だ)をもじったもので、ローズは1920年、彼女が生まれたときには女のもっとも俗な名前でした。私はそれにRを二つ重ねてもっと俗にしたのです……」とデュシャンはその名の由来を私への手紙に書いている。

 こうして、いまは架空だが、「ローズ・セラヴィ」という店の名が、デュシャン自身の命名によって誕生し、いま私は看板を試作中であり、おそらく近日中には少なくとも看板だけは私の書斎に掲げられるだろう。それがまたひとつの物であり、この看板はいったい何を私に照らしだしてくれることだろう。


  (瀧口修造「物々控」―『美術手帖』第251号、1965年4月増刊号より)

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瀧口修造の墓に花を手向け、Mくんとともに静かに合掌。
しかし、あんまりゆっくり時間を過ごしたので帰りの列車に乗り遅れ、1本後の列車で富山に戻ることになりました。
そのため富山地方鉄道の時間があわず、歩いて15分ほどの距離にある富山城址公園を散策。

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富山城は、1543年頃に越中の守護代・神保長職が家臣の水越勝重に命じて築城したとされ、後に織田信長の重臣・佐々成政の居城となり、江戸時代には越中前田家の居城となりました。本丸御殿は明治期に焼失し、現在の鉄筋コンクリート構造の天守閣は1954年に建てられたもの。

公園内には、富山藩2代藩主・前田正甫の銅像もありました。
実は有名な「富山の薬売り」の元祖はこの前田正甫なのだそうです。
元禄期に江戸城内で岩城三春藩主・秋田河内守が急な腹痛で苦しむのを見た正甫が、常備していた薬「反魂丹」を飲ませたところ、たちまち痛みが収まったため、諸国の大名から薬の販売依頼が殺到。そこで領地から出て全国で商売ができる「他領商売勝手」を発布し、「富山の薬売り」が生まれたとのこと。富山駅前には薬売りの銅像もありました。

夕闇が迫るなか、富山地方鉄道に乗って上市駅で下車。
この日の宿は上市町のつるぎ温泉。海鮮鍋や白海老釜飯など、山海の幸をふんだんに取り入れた夕食と露天岩風呂で長距離移動の疲れを癒しました。
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