2010/9/25

『「国民歌」を唱和した時代』読書会  調査・旅行・出張

午後7時からは、新宿区内で『「国民歌」を唱和した時代』(戸ノ下達也著、吉川弘文館)の読書会に参加。
20年以上に渡り日本近代音楽史の研究に取り組んできた戸ノ下さんが、戦時期の音楽について「国民歌」という当時の公式な呼称を再発見し、歴史的役割を位置づける(戦時期の音楽と社会とのかかわり、「上からの」音楽統制の実態を明らかにする)という著作です。

1937年に国民精神総動員運動強調週間のテーマ曲として日本放送協会が制定した《海ゆかば》(言立=大伴家持、作曲=信時潔)についても、さまざまな意見が交わされました。
個人的には、近現代史研究者のKさんが紹介された『画家たちの「戦争」』(新潮社、2010年)のなかの藤田嗣治《アッツ島玉砕》について書かれた河田明久氏の論考が、《海ゆかば》をはじめとする「国民歌」に重なるようで印象に残りました。
以下はその抜粋です。

 1943年9月の国民総力決戦美術展にあらわれた藤田嗣治の《アッツ島玉砕》について、当初、軍の関係者は発表におよび腰であったといわれる。絶望的な死闘の主題が国民の士気をそぐのではないかというかれらの危惧はもっともだったが、しかし藤田の考えは異なっていた。
 そもそも太平洋戦争の物語が始まったときから、日本兵の死は表現上のタブーではなくなっている。それどころか、真珠湾攻撃で戦死した9名の特集潜航艇乗組員を海軍が「九軍神」に、これに対抗して陸軍では7度も感状を受けたエースパイロットの加藤健夫を「空の軍神」に、といった具合に、陸海軍自身が競い合うようにしてまつりあげてきたという経緯がある。アッツ島守備隊の玉砕もまた同じ流儀で大々的に喧伝され、藤田が制作に取りかかった1943年の夏ころまでには、すでにその「忠魂」を神がかった言葉でたたえる世論ができあがっていた。しかも「大義」にのっとった正しい死は、現実の迫害が間近にせまればせまるほど、「殉教」としての輝きを増す。

〈中略〉
 ちなみに、敗戦を間近にひかえてますます戦争画のボルテージを上げていたのは、作者だけではない。1942年の第1回大東亜戦争美術展で一挙40点の作戦記録画を公開した陸海軍は、その後も競うようにして委嘱数を拡大させ、敗戦までに陸軍が75点、海軍も68点の公式戦争画をさらに積み上げている。
 事情は作り手、送り手だけでなく、受け手の側でも同じであったようだ。1944年6月、本土では初めてとなる本格的な空襲に見舞われた北九州小倉の井筒屋百貨店が、事態の急迫を押して、東京から巡回してきた陸軍美術展の開催に踏み切ったところ、意外にも会場は観衆であふれ返り、地階から7階会場にいたる階段には入場待ちの長い列が途切れなかったという。またその翌年、東京大空襲でひと月遅れの開幕となった1945年4月の陸軍美術展も、連日の空襲にもかかわらず、わずかな会期で3万数千人の観客を東京都美術館に集めたという証言が残されている。
 これらの数字は、戦争末期の戦争画が、人びとにとってある種の必需品であったことを物語っている。「大義」とともに絵づくりの自由を手に入れた画家だけでなく、その絵をつくらせ、受け止める側の人々にとっても、現実が苛烈であればあるほど、物語はますます手放しがたかったということだろう。


音楽と絵画というメディアの違いはあるものの、作品を作る側、送る側、そして受け止める側が、苛烈な現実を前にして“死の大義”を求めた構造は、同じではないかと思えます。
それが美しく優れた作品であるほど、人々の心に響き、胸を揺さぶられたことでしょう。
だからこそ、二度と「聴きたくない/観たくない」という戦争体験者の方々の気持ちもわかるような気がするし、一方で戸ノ下さんのように、封印しタブー視するのではなく、歴史の教訓として直視しなければならないという考え方も、理解できるような気がするのです。

音楽と比較すると戦時期の研究が進んでいると思われる絵画の分野でも、東京国立近代美術館に収蔵されている「戦争画」153点が全点同時に公開されたことはいまだにありません。
それが論議の対象になることもありますが、当時の作品群をひとつの歴史として客観的に振り返り位置づけるには、まだ生々しい感情の問題が横たわり、さらなる時間と地道な研究の積み重ねが必要だということを、あらためて考えさせられる思いがしました。
0




※投稿されたコメントは管理人の承認後反映されます。

コメントを書く


名前
メールアドレス
コメント本文(1000文字まで)
URL




teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ