2010/8/16

『長野日報』「「原爆の図」を読む 第7部竹やぶ」掲載  掲載雑誌・新聞

今年も8月1日から8日まで、長野県の神宮寺にて恒例の《原爆の図》展示が行われました。
今年展示されたのは、原爆の図第7部《竹やぶ》。

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それに合わせて、2010年8月16日付の『長野日報』に、石川翠さんによる「「原爆の図」を読む 第7部竹やぶ」と題する興味深い投稿記事が掲載されました。

以下はその文章の一部抜粋です。

 この絵は原爆禍に背を向けて竹の構成美に逃げた、いわば失敗作とされ、これまで専門家から芳しい評価を受けてこなかったが、わたしは二つの点から「竹やぶ」の意義をみとめたいと思っている。
 その一つは、自然と人間の被爆という主題だ。第8部「救出」と第15部「長崎」にはうなだれた向日葵が、また第10部「署名」には紅白の梅が登場する。前者を死者への献花、後者を希望のシンボルととらえるとき、「竹やぶ」が描くのは被爆後、藁をもすがる思いで竹林に逃げ場を求めた弱者たち、おそらく数日のうちに冥府に旅立つ半死半生の原爆難民の姿だろう。本州一体に広く分布する竹は、雨後の筍のたとえもあるように旺盛な生命力の象徴である半面、一斉に枯死するなど生と死の明暗を暗示する存在でもある。逃げ惑う人々とともに滅んでゆく竹林を描いた「竹やぶ」は、人間と自然を核の被害者として同格に扱っている点、注目される。
 もう一つは第6部「原子野」(52年)との関係だ。「原子野」は心身虚脱して被爆地をさまよう群像に、核時代という幽冥境を生きるわたしたちの姿を重ね合わせた「図」中の白眉といえる。だが、その高度な象徴性は逆に「図」を被爆者からも観客からも遠ざけてしまうところがある。この突出を現実へと撫で下ろすアダプタ。それが「竹やぶ」の役割だったのではあるまいか。


文章は、最後に、長野県下諏訪町生まれの現代美術家・松澤宥と《原爆の図》との関連について触れて、結ばれています。

《原爆の図》については、ともすればその全体的な存在意義を中心に語られがちで、個々の作品をとらえた評論というのは、これまでそれほど多くありません。
そのなかで、この石川さんの指摘は非常に興味深いものと思われます。

とりわけ、第7部《竹やぶ》を第6部《原子野》との連続性でとらえる視点は、その前の第5部《少年少女》も含めて、「象徴性」と「現実」とのあいだで揺れ動く《原爆の図》の本質を鋭く浮かび上がらせているように思います。
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