2010/8/5

北海道展とふたつの《原爆の図》  1950年代原爆の図展調査

今年は《原爆の図》が誕生してから60年目の節目の年。
その8月6日「ひろしま忌」を前にして、少々長くなりますが、最近の調査で明らかになった“もうひとつの北海道巡回展”そして“もうひとつの原爆の図”について記したいと思います。
7月31日に九州大学西新プラザで行われた「第31回原爆文学研究会」の発表内容のダイジェスト版となります。

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昨年暮れ、目黒区美術館「‘文化’資源としての〈炭鉱〉展」を企画されたM学芸員に、1枚の写真の存在を教えて頂きました。

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雪の積もる建物の玄関先で、2人の青年に引率されて並ぶ33人の子どもたち。
入口の扉の看板は「綜合原……」と読めます。
この写真は、北海道の三菱美唄炭鉱で1952年1月に行われた「綜合原爆展」の貴重な記録だということがわかりました。
写真の2人の青年は、三菱美唄炭鉱美術サークルの平山康勝氏と鷲見哲彦氏。
絵画教室の子どもたちを連れて、《原爆の図》の展示を観に来ていたのです。

その後、美唄市教育委員長で郷土史家のS氏の精力的な調査によって、この展覧会が新築されたばかりの三菱美唄炭鉱労働組合本部2階で開催されたこと、主催は三菱美唄炭鉱労働組合文化部で、地域の全小中学生が参観したのをはじめ、2日間(1月27日、28日)で約1万人もの来場者があったことなどが次々と明らかになりました。
「綜合原爆展」という名称は、1951年7月に京都大学の学生らによって医学・物理・化学・政治・経済などの多角的な視点から模型やパネルで原爆を解説するという画期的な展覧会で使われていました。
この形式はその後各地に大きな影響を与え、同年11月に札幌で行われた展覧会も、北海道大学の学生が京都展に倣うかたちで解説資料を展示したので、三菱美唄の展覧会も、その流れとして開催されたものと推測されます。

ところが不思議なことに、丸木俊の自伝に詳しく記されている北海道の原爆展は、1951年秋に室蘭、旭川、秩父別、札幌、函館の5会場を巡回したという回想のみで、翌年はじめに開かれた美唄展についてはまったく触れていません。
丸木夫妻から《原爆の図》を託されて全国を巡回したというヨシダ・ヨシエ、野々下徹の巡回展の記録も1952年3月からはじまっているので、美唄展とは時期が一致しません。

約1万人も動員したという大規模な展覧会の記録が、なぜ残っていないのか。
美唄の他にも、北海道には忘れられた展覧会があるのではないか。

そうした疑問から、1950年はじめの原爆展に関する証言を全道的に呼びかける記事を、今年の2月に『北海道新聞』に掲載して頂きました。
約60年前の展覧会であるにもかかわらず、記事をご覧になった方々からは予想以上に多くの反響が寄せられました。
そして、北海道立図書館に所蔵されている元北大理学部教授の「松井愈(まさる)氏資料」のなかに、当時の原爆展に関する詳しい記述が存在することがわかったのです。
松井愈氏は、当時、理学部地質鉱物学科の若手研究者で、民主主義科学者協会(民科)の一員として原爆展開催に熱心に取り組んでいたようです。
とりわけ重要だったのは、1965年北海道大学理学部発行の『底流』第7号に掲載された「朝鮮戦争下の科学運動 ―民科札幌支部自然科学諸部会の活動を中心に―」という文章でした。そこには、1952年に、北大の学生を中心にして、北海道全域を巡る想像以上に大規模な巡回展が行われていたことが記されていたのです。

「全道くまなく原爆展をやろう、われわれの力でこれを実現させよう!!」各地の民主団体に呼びかけ、依頼がだされた。さらに多くの学生・若手研究者が、時間をさき合ってスケジュールを組み、一地域ごとに数名の組織解説グループがつくられた。原爆の図とパネルを各地の会場にリレーしてゆくためにも多くの工夫が必要だった。このようにして、1月10日〜17日の夕張市を皮切りに、岩見沢、美唄、美流渡、砂川、上砂川、赤平、茂尻、幌内、赤間、豊里、帯広、根室、釧路、網走、北見、名寄、稚内、留萌、雨龍、小樽、余市、大和田、苫小牧、浦河、静内、深川、富良野、幕別という順に1ヵ所ずつ数日の日程がとぎれることなく1月から4月までつづけられた。民科札幌支部に報告のあっただけでも原爆展にあつまった人数は15万人を越した。

また、他の証言から、この巡回展には、丸木夫妻側の関係者として画家の濱田善秀氏、北海道の受け入れ側として元国鉄職員の吉崎二郎氏が帯同していたこともわかりました。
濱田氏は、当時、藤沢市片瀬目白山の丸木夫妻のアトリエに居住していた画家志望の青年たちのなかの一人でした。
吉崎氏は俊の故郷・秩父別の隣の深川町出身で、レッドパージにより職を追われ、平和委員会に所属していました。兄君が丸木夫妻と同じ日本美術会の画家・與志崎朗(よしざき・ろう)氏だったこともあり、夫妻の信を得て巡回展の責任者となったようです。

   *   *   *

丸木夫妻自身の巡回展と、ヨシダ・野々下両氏の巡回展のあいだに、まったく別の人たちの手による巡回展が行われていたことは、新しい発見でした。
しかし、その一方で、新たな疑問も浮上してきました。

濱田・吉崎両氏の全道を巡る巡回展(丸木夫妻の“第1期”北海道巡回展と区別するため、“第2期”北海道巡回展と呼ぶことにします)は、1952年5月5日付『北海道大学新聞』の記事により1952年5月1日の幕別展で終了したことが判明しましたが、ヨシダ・野々下両氏の巡回展は、1952年3月に新潟方面ではじまっているのです。
つまり、1952年3月から4月にかけては、同時に二つの場所で原爆の図の巡回展が行われていたことになります。

その疑問は、当時三菱美唄炭鉱労組の文化部長を務めていた故本間務氏のお宅を訪問した際にアルバムから発見した1枚の写真によって解明されました。

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原爆展の会場で署名をする女性たち。
その背後に写りこんでいるのは、原爆の図第3部《水》です。
しかしよく見ると、この作品は、現在、原爆の図丸木美術館に所蔵されている《水》とは、少し違っているのです。

美唄展の写真に写っている《水》の中央部分を拡大してみます。

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参考に、丸木美術館蔵の《水》の中央部分の拡大図版も紹介します。

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母子像の背後に描かれた小さな被爆者の群像の列のかたちが、明らかに丸木美術館蔵の《水》とは異なっています。
また、背景には薄墨が流されていますが、丸木美術館蔵の《水》は余白のままです。

それでは、美唄に展示された原爆の図は何なのでしょうか。
実は、丸木夫妻が制作した原爆の図は、初期3部作に限って2組あるのです。
現在、広島市現代美術館の収蔵庫にあるもう1組の原爆の図第3部《水》の拡大図版を見てみましょう。

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実はこの《水》は後年に加筆されているのですが、被爆者の行列のかたちや薄墨の流れ具合が、美唄に展示された作品と見事に重なります。美唄をはじめ、“第2期”北海道巡回展に展示された作品は、“もう1組”の原爆の図だったのです。

“もう1組”の原爆の図について、俊は、1950年頃、ある米国人が原爆の図のアメリカ巡回展を持ちかけてきた際に制作したと回想しています。

 さあて、原爆の図がアメリカに渡る、何が待ちうけているだろう。もしもの時のために三部作のひかえを取っておかねばなりますまい、急げ急げ、というので、片瀬の山小屋の住人に手伝ってもらうことにしたのです。奥の三畳の住人、もう一人の住人とそれにわたしと夫の位里を加えて四人の画家は、「幽霊」「火」「水」の模写をはじめました。
 うすい紙に形をたどるもの、それをもとにして線を描くもの、線は、なるべく作者が描くように、と描きあげました。

  (丸木俊『幽霊 原爆の図世界巡礼』pp.18-19 朝日新聞社、1972年)

“奥の三畳の住人”というのは、濱田氏のことでしょう。
“もう一人の画家”が誰だったかは特定できませんが、丸木夫妻だけでなく、少なくとも濱田氏は制作にかかわりながら、俊の言葉を借りれば〈模写〉が描かれたことは確かなようです。

1952年5月5日付『北海道大学新聞』には「赤松丸木両氏との共同製作者浜田氏」という記述があるので、主催者側もオリジナル作品でないことは承知していたのでしょう。

結局、米国巡回展は丸木夫妻が最終的に依頼を断り、《原爆の図》が海を渡ることはありませんでした。
1950年8月に刊行した絵本『ピカドン』が、連合国最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)発売禁止・原画没収処分を受けたことも、夫妻を警戒させたのかも知れません。
おそらく、北海道から“第2期”巡回展の申し出が来た際も、2人は《原爆の図》が自らの手を離れて巡回することを不安に思い、3部作の〈模写〉に濱田氏を帯同させて、北海道に向かわせたのでしょう。

全道で15万人もの参観者を集めるという大成功を収めた“第2期”巡回展が、丸木夫妻の記録に残らず忘れ去られたようになってしまったのは、このような理由があったものと思われます。

しかし、この〈模写〉による実験的な巡回展がこれほどの成功を収めていなければ、あるいはヨシダ・野々下両氏によるオリジナル5部作の巡回展も実現していなかったかも知れません。
原爆の図が全国各地へ巡回し、多くの人の記憶に残ることもなかったかも知れません。
その意味では〈模写〉が果たした歴史的役割は、決して小さくないと言えるのではないでしょうか。

   *   *   *

北海道を巡回した原爆の図の〈模写〉は、その後どのような経緯をたどったのでしょうか。
最近寄せられた証言によると、1952年5月に都立大学で開催された「原爆展」を機に、夏休み期間に学生たちによって田無や立川、清瀬の療養所などで巡回展示された原爆の図は〈模写〉であったとのことです。
当時巡回展にかかわったという方は、「原爆の図が〈模写〉であったことは、学生たちの間で問題になった。原爆の惨状を伝えるためには本物も模写もないという肯定派、同時に各地で展覧会をするためには仕方ないという中立派、例えばゲルニカが傑作だからといってもう一点制作するのは芸術家の姿勢としてどうなのかという否定派に分かれて議論になった。その根底には、〈模写〉が明らかにオリジナルに比べて質が落ちるという問題があった」と語っています。
実は、俊も〈模写〉について、次のような文章を残しています。

 作者も描いたのですから、これもオリジナルと同じだと、いくら言いはっても、どうしてもはじめの絵のような迫力がないのです。はじめの絵も、傑作とは言いがたいし、いろいろ不備もあるのです。けれども、やっぱりはじめの方がいいのです。
 二枚同じものはできない、ということをつくずくと思い知らされました。

……(中略)……
 そのころから日本国内展がはげしくなり、あとから描いた原爆の図も並べたりしました。そんな会場へ行って、説明をしなければならない時のつらいこと、あとから描いた絵の前で冷汗を流しながら、言葉だけはだんだんはげしくなっていくのです。絵で感じられない感動を言葉で伝えようとするのでしょうか。われながら恥ずかしくなって、疲れ果てて帰路につくのでした。
 それからは、ずうっと、この一組は門外不出として、しまいこんであるのです。
 
 (丸木俊『幽霊 原爆の図世界巡礼』pp.19-21 朝日新聞社、1972年)

「門外不出」となった〈模写〉3部作ですが、1974年に栃木県岩船町に丸木美術館栃木館が開館すると、丸木夫妻によって加筆された後、栃木館で一般公開されました。
その後、1996年には栃木館の閉館にともない、広島市現代美術館に寄贈され、現在は収蔵庫に収められています。

複雑な経緯もあって、これまでほとんどかえりみられることのなかった“もうひとつの”原爆の図。
そもそも俊の言う〈模写〉との呼称が適切かどうか、正確には〈再制作・加筆版〉と呼ぶべきかも知れませんが、この作品とオリジナルの原爆の図を比較し、受容の歴史をもう一度たどりなおすことによって、原爆の図の歴史的な意義や、たびたび議論される“芸術性”と“記録性”の問題なども、新たな読み取り方が見えてくるように思えます。
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2010/8/15  16:11

投稿者:okamura

>足跡さま
《原爆の図》の歩みは社会背景と切り離して見ることはできないのだとあらためて考えさせられますね。
〈模写〉という呼び方で良いのかどうか、もうひとつの《原爆の図》をどのように位置づけ評価していくべきか、いまだに頭を悩ませています。

2010/8/14  20:27

投稿者:足跡

へぇ〜、そんなことがあったのですね。原爆の図の模写…。でもアメリカに行くと知って心配した丸木夫妻の気持ちも分かるし、画家として模写を作る2番作品の出来具合に気持ちが収まらない「冷や汗」の気持ちも分かります。でも、そうしてより多くの人々が広島の「原爆」を絵を通して理解を深め、思いを寄せたことが素晴らしいことだと思います。

2010/8/7  6:56

投稿者:okamura

>N.K.さま
コメントどうもありがとうございます。
原爆の図については、知っているようでまだまだ知らないことがたくさんあります。今回の一連の調査でも、証言を寄せて下さった方のお話によってあらためて知らされたこと、気づかされたことがたくさんありました。
受容の歴史の重みを感じながら、これからも調査を続けて行きたいと思います。
今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

2010/8/5  23:06

投稿者:N.K.

非常に興味深く読ませていただきました。
その上で、原爆の図をもう一度観たくなりました。
明日はひろしま忌ということで、また多くの人の目に留まるのでしょう。
どこに住まうどのような人が、どの位の数で、どのように観られてきたのか。
受容の歴史はこれからも続いていくのですね。
これだけのものをまとめ上げたこと、本当に素晴らしいと思います。


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