2010/3/19

1952年「第二次」北海道原爆展の動き  1950年代原爆の図展調査

北海道立図書館から取り寄せた松井愈氏資料「朝鮮戦争下の科学運動―民科札幌支部自然科学諸部会の活動を中心に―」をもとに、1952年の「第二次」原爆の図巡回展の動きを北海道の地図に落とし込んでみました。

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1.夕張 2.岩見沢 3.美唄 4.美流渡 5.砂川 6.上砂川 7.赤平 8.茂尻 9.幌内
10.赤間 11.豊里 12.帯広 13.根室 14.釧路 15.網走 16.北見 17.名寄 18.稚内
19.留萌 20.雨龍 21.小樽 22.余市 23.大和田 24.苫小牧 25.浦河 26.静内
27.深川 28.富良野 29.名寄 30.幕別


「第二次」巡回展というのは、丸木夫妻自身が1951年10月から12月にかけて室蘭、旭川、秩父別、札幌、函館を巡回した展覧会を「第一次」として、便宜上つけている呼び方です。
この巡回展には丸木夫妻が帯同していませんでした。
つまり作家の手を離れて、初めて「原爆の図展」がひとつのMovementとして運営された画期的な巡回展と言えるのかも知れません。
この「第二次展」が、目黒区美術館の「炭鉱展」によって、そして三菱美唄炭鉱の一枚の写真を契機に掘り起こされたのも、決して偶然ではなく、当時最盛期を迎えていた北海道の炭鉱文化ネットワークが、このMovementに大きな役割を果たしていたようです。

「第二次展」の掘り起こしについては、美唄市のSさんが大きな役割を果たして下さっています。
先日、三菱美唄労働組合本部の内部写真を公開しましたが、Sさんによれば「内部写真は、階上ではなく階下事務所のようで、階上もおおむね同じ構造になっていました。大会議室もさほど広くはなく、5部作すべての展示は無理だったかも知れません」とのこと。
ご丁寧に、建物内部の図面まで送って下さいました。

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また、「大会議室奥の小会議室には、パネルのようなものがびっしり張られていたように記憶しています。短期間で多数の会場を次々と移動し、何より広い会場を確保するのも大変でしたので、小学生の感想文や<釧路>展からも推察されるように、「第二次」は、初期3部作と解説パネル(カートン紙)による「綜合原爆展」だったのかも知れませんね」とご教示頂きました。

長年、郷土史家として炭鉱の歴史を調査されてこられたSさんは、ほかにも多くの情報や示唆を与えて下さっています。
その内容を、以下にまとめて書き出すことにします。

・夕張(1月10日〜)から始まる「第二次」は、岩見沢・砂川を除いてまず空知地方の炭鉱地域で主に開催し、2月中旬以降に道東地方(〜北見市3月9日まで)、3月中旬は道北地方(沼田町浅野雨龍炭鉱まで)、4月頃から小樽ほかを転々とし、5月1日の幕別で終了した様相が見えて来る。

・『北海道大學新聞』1952年5月5日付の「全道原爆展終る 平和の意志を大きく育てよう」という記事の冒頭に「全道三十八ヶ所をまわり観客三十五万人を動員した一大カンパニア原爆展は一日の北見幕別を最後に多大の成果を収めて終了」とある。「北見幕別」とあるが、新田ベニヤの工場があった中川郡幕別町と思われる。

・夕張・赤平では、複数の炭鉱企業・鉱業所内ごとに開催されたのは明らかである。

・1月10日−14日「夕張展」の会場は「夕張市民会館」で、女子高生も手伝い。

・3月6日−9日の「北見展」は、北見商工会議所大会議室で開催。実行委員となった美術団体関係者情報のほか、「入場者数約2万人」といった記録もある。

・「上砂川」は町ぐるみ三井砂川炭鉱地域だったが、当時の三井砂川労組新聞『砂労』にも記事は皆無。ところが、サンフランシスコ講和条約発効(1952年4月28日)後の1952年8月になってから、労組として「平和運動月間」を設定している。労組事務所前に『アサヒグラフ』同年8月6日号に掲載された原爆被害写真を展示し、労働組合報『砂労』に、おそらく『原爆の図 画集普及版』(青木書店)からとったと思われる原爆の図の一枚(少年少女)やアサヒグラフの被害写真(広島)、長田新編『原爆の子 広島の少年少女のうったえ』(1951、岩波書店)の一節を紹介して、「反戦平和文芸作品」を募集。後日、「反戦平和文芸作品発表特集号」も発行している(三井砂川労組機関紙『砂労』1952年8月20日付・同年11月7日付)。

・松井愈氏資料「朝鮮戦争下科学運動」pp9-10に、室蘭・旭川・秩父別・札幌・函館各展の後、民科札幌支部として「『全道くまなく原爆展をやろう、われわれの力でこれを実現させよう!!』各地の民主団体に呼びかけ、依頼がだされた。さらに多くの学生・若手研究者が、一地域ごとに数名の組織解説グループがつくられた。原爆の図とパネルを各地の会場にリレーしてゆくためにも多くの工夫が必要だった」とある。その結果が、30カ所の巡回展につながった。三菱美唄展は労組文化部主催だが、必ずしも幹部たちの指導方針に基づくものでもなかったように、実際に受け入れた側には、組合幹部の意向に限らず、受け入れ側の多様な文化状況や人々の思い、人間関係なども深く関与していたと思われる。


Sさんの綿密な調査力には本当に驚かされ、勉強になることばかりです。
何より、60年前の展覧会の調査を続けていく上で、大きな励ましと勇気をもらっています。
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