2010/1/17

埼玉新聞・北海道新聞取材  来客・取材

今日もまた、NHKニュースの影響で問い合わせと来館者の多い一日になりました。

午前中、埼玉新聞A記者が「没後10年 丸木俊展」の取材に来て下さいました。
毎回企画展に足を運んで下さるA記者は本当に心強い存在です。
企画の見どころをお話しした後、会場の写真を撮影。
「どの作品の前で撮りましょうか」とAさんから質問され、晩年の俊さんと親交のあった歌人Kさんからお借りした《飛天》の掛軸を選ぶことにしました。

今回の企画展では、すでに朝日新聞で版画家Uさんから寄贈された初公開作品《女性像》が紹介され、NHKのニュースで「アトリエ村の小さな画廊」Iさんからお借りした《ロシア人形》が紹介されています。
これで埼玉新聞に《飛天》が掲載されれば、ひととおりお世話になった方の作品がメディアで紹介されることになるので、企画側としては心安らかになれそうです。

   *   *   *

午後には北海道新聞K編集委員が来館して下さいました。
このところ調査が進んでいる1950年代はじめの原爆の図巡回展の北海道の足どりを取材するためです。
以前にも紹介しましたが、丸木夫妻は1951年10月29日に開幕した室蘭展をはじめに、旭川、札幌、秩父別、函館と《原爆の図》5部作を持って巡回しています。俊の回想にもこの5会場のことが登場するのですが、最近になってその後も《原爆の図》が北海道で巡回を続け、1952年のはじめに美唄炭鉱や釧路で展覧会をしていたことがわかってきました。

しかし、当時の原爆の図展(原爆展、総合原爆展の呼称もあり)は、占領軍にマークされており、新聞にもほとんど報道されず、主催者の記録も(おそらくは意図的に)残されていません。
そのため、展覧会の足どりを掘り起こすには、地元の方々の記憶を頼りながら、わずかな記録をつなげていくよりほかに手立てがないのです。
現在、美唄市のSさんはじめ北海道在住の数人の方が調査に協力して下さっていますが、北海道新聞が大々的に取り上げてくれれば、あらたな情報が寄せられるかもしれません。

1950年代はじめの原爆の図展は、米軍占領下において原爆の被害状況を一般の人たちに伝えた最初期の試みであり、個別に分断された戦争の記憶をつなげる貴重な役割を担いました。
文化サークルや労働組合、学校、行政、宗教団体、商業施設など、さまざまな立場の組織や人びとが展覧会に協力し、その動員力が高い商業価値を備えていたことも特筆されます。

近年、再評価の動きが高まりつつある1950年代の文化運動のなかでも重要な柱のひとつとして、原爆の図展はこれから注目されていくのではないかと思います。
北海道新聞の記事、そしてその反響に期待したいところです。
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