2009/11/21

江戸川原爆犠牲者追悼碑  調査・旅行・出張

東京・江戸川区の地下鉄東西線葛西駅から北へ徒歩5分。
江戸川区立滝野公園という緑豊かな公園の一角に、縦横約2mほどの大きな自然石による「原爆犠牲者追悼碑」が建っています。

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この追悼碑は、江戸川区内に住む被爆者や多くの市民によって、1981年7月に建てられました。広島、長崎という被爆地以外で、市民や行政が一体となって「原爆犠牲者追悼碑」を建てるというのは、他にほとんど例がないそうです。

かねてから、追悼碑の建立に尽力された江戸川区の被爆者団体・親江会の会長で、丸木美術館顧問のGさんに「追悼碑を見に来て下さい」とお誘いを受けていたのですが、この日の午後、ようやく訪れることができました。
さいわい天気は快晴、コートを着ていると汗ばむほどの温かい日で、Gさんはじめ親江会の方が追悼碑を案内して下さいました。

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石碑には、丸木夫妻が下絵を描き、親江会の皆さんが自分たちの手で彫ったという平和の鳩の母子像が刻まれています。
Gさんのお話によると、追悼碑を立てるという案が出て、丸木夫妻に絵を描いて欲しいと相談に行った際、俊さんから「まず石を選びなさい。絵は私たちが描くから、石は自分たちで彫りなさい」と言われ、石屋に彫ってもらうものとばかり思っていたGさんは、とても驚いたそうです。
石屋さんが四国から運んできた自然石には、まず俊さんが母子像を描き、位里さんがそのまわりを囲むように鳩を描きました。その後、「ちょっと寂しいな」と俊さんが絵の上に花を描き添えて、下絵は完成しました。
それから親江会の皆さんは、週末ごとに集まって、朝から夕方まで石を彫り続けました。
ところによってはとても硬くて彫るのに苦労した部分もありましたが、石碑は無事に完成。丸木夫妻のアドバイスを得て、母子像は朱、鳩は白、夫妻の署名は黒で色を塗りました。
「自分たちで彫ったおかげで、とても良いものになりました」とGさんは笑顔で語ります。
「丸木夫妻は、それまで、平和の鳩のなかに赤ん坊の絵を描いていました。私たちは、大きな石碑を作りたいので母子像を描いて下さいと俊さんにお願いしたので、もしかしたら、平和の鳩の母子像はこの追悼碑がきっかけで生まれたのではないかしら」という貴重な証言まで聞かせて下さいました。

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指で表面のくぼみをたどると、いまだ生々しい彫り跡のひとつひとつを通って、この石碑に関わった方々の思いが伝わってくるような、温かい気持ちにさせられます。
追悼碑に向かって手を合わせると、そのまま広島、長崎の方向に向かって祈ることができるように建てられていると、後から教えて頂きました。

石碑の前には、次のような「建立のことば」の碑が建てられています。


 建立のことば

 一九四五年八月六日・九日、広島と長崎に原爆が投下され、一瞬にして数十万人の生命が消えました。
 炎天下、水を求めながら亡くなった人たちに、どうぞ、あなたの手で一ぱいの清水をたむけてください。
 この碑の建立にあたっては「原爆の図」の作者丸木位里・俊夫妻が絵筆をとり、江戸川在住の被爆者二百余名と区民がノミをふるい、多くの人の協力がありました。
 原爆は人が落とさなければ落ちてきません
 この碑によせる人びとの心が平和の礎となることを念じて

 一九八一年七月二六日
 江戸川区に原爆犠牲者追悼碑を建立する会



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追悼碑建立の翌年には、広島市と長崎市から原爆の熱線に焼かれた「原爆瓦」が寄贈され、追悼碑のために切り落とされた自然石の下の部分を使って、追悼碑の隣に並べられました。
瓦は、爆心地の川底に埋まれていたものを、広島・長崎の子どもたちや市民の手で掘りだされたものだそうです。

その後、Gさんたちは区長にお願いして噴水を設置し、1日2回、8時15分と11時2分(広島と長崎に原爆が落とされた時刻)に追悼碑に水がかけられるようにしました。そこには、水を求めて亡くなった原爆犠牲者の苦しみを、少しでも和らげてあげたいという祈りが込められています。
この日は見ることができませんでしたが、水をかけられた自然石は、表面が洗われて、きれいな緑色になるそうです。

現在の追悼碑のまわりには、平和の鐘や千羽鶴棚が作られ、2007年には江戸川区に縁のある原爆犠牲者の名簿が刻まれた「追悼碑に眠る方たち」の碑も建てられました。

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Gさんは、「追悼碑に眠る方たち」の碑に刻まれた名前をひとつひとつ指でたどりながら、「この方は『建立のことば』の文字を書いて下さった当時の会長さん。この方は戦争中に軍隊のラッパ手をしていて、最初の式典で俊さんと桐笛の共演をされた方。この方たちは韓国人被爆者のご家族……ここへ来ると、亡くなられた関係者のことを思い出します。名前があるというのはいいですね」とおっしゃっていました。

追悼碑のまわりには、広島市から贈られたクスノキ(広島市の木)、長崎市から贈られたナンキンハゼ(長崎市の木)が、これらの碑を守るように立派に生い茂っています。
少し離れたところには、広島の爆心地から1.5kmの地点で被爆したアオギリの種から育てた被爆二世アオギリも植えられています。今年は初めて種が採れたとのことで、いよいよ被爆三世のアオギリが育ちはじめるようです。

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写真は被爆二世アオギリを見上げる親江会の皆さん。一番右がGさんです。

Gさんたちが「原爆犠牲者追悼碑」を建てたいと思ったとき、当時の江戸川区長は理解を示し、「区立公園ならどこに建ててもよい」と言ってくれたそうです。
そのとき滝野公園を選んだのは、区民館や駅からも近く、まだ何もない公園だったから、自分たちで育てていける、と思ったのが理由だったとのこと。
その思いの通り、追悼碑は多くの人の支援を得て、少しずつ育ち、形を整えていきました。
毎年7月下旬の日曜日には「江戸川区原爆犠牲者追悼式」が行われ、多くの方が参加して平和への思いをあらたにしています。

「はじめは壊されたり、いたずらされたりするんじゃないかと心配したけど、皆さん大事にして下さっていますね」とGさん。
「ついこの間、地元で葛西祭りというのがあって、滝野公園にも出店がいっぱい並んでいました。親江会でも追悼碑の前にテントを出すのですが、公園が人であふれるので、子どもたちは、石碑や噴水の上によじ登ったり、座ったりするんです。でも、それもいいのかなと思いますね。公園で暮らすホームレスの方が、通りすがりの人に追悼碑の説明をするのを見たこともあります。いろんな形で、この追悼碑は地域に溶け込んでいるんですね」と親江会のNさん。
ぼくが説明を聞いている間にも、お母さんに連れられてきた女の子が追悼碑の前で手を合わせ、軽やかに走り去って行きました。

時間も場所も遠く離れたところで、広島・長崎に思いをはせる。
日常のなかにそんな場所があるということの意味が、心のなかに深く沁み込み、この追悼碑が、これからも地域の方々に大切に守られていって欲しいと心から思いました。

親江会の皆さんは、次の週末に丸木美術館まで見学に来て下さいます。
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