2008/12/5

1959年の丸木夫妻  作品・資料

少し前に資料整理をしていたところ、1959年の丸木夫妻の新聞資料の切り抜きがごっそり入った封筒を発見しました。『アカハタ』や『婦人民主新聞』などの記事が主なのですが、当時の丸木夫妻の足跡が詳しくたどれる貴重な資料です。
ここ数日、その新聞資料を読みこみながら資料用年譜に整理しています。

1959年が丸木夫妻にとってどういう年だったかというと、まず、《原爆の図》10部作の世界巡回展がオーストラリアを離れて、ソ連に向かった年でした。
5月28日にはモスクワのゴーリキー平和公園陳列館で「原爆の図展」がはじまっています。丸木夫妻は開幕式には参加しませんでしたが、6月4日に訪ソ使節団の一員として神戸港を出航し、ナホトカ、ハバロフスクを経てジェット機で8日にモスクワに到着しています。6月25日には市民集会「平和擁護の夕べ」に参列し、歓迎を受けました。このときには、ソ連在住の片山ヤスや岡田嘉子の出迎えも受けたようです。

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左から2人目・片山ヤス、中央後方・俊、右端・岡田嘉子
〔『アカハタ』1959年8月9日〕

夫妻は7月26日に帰国しましたが、「原爆の図展」は8月14日から10月13日までレニングラード国立ロシア博物館で開催され、その後、キエフ、スターリングラード、ノボシビルスクなど1960年9月まで約1年半、ソ連各地を巡回しています。
当時の新聞には、ソ連の文化人や一般市民がどのように《原爆の図》を受け止めたのか、感想やスピーチが詳しく掲載されています。

また、この年は、日本で虹書房から『原爆の図画集』が、中国で『日本画家丸木位里・赤松俊子作品選集』と題する《原爆の図》を主にした画集が、ソ連でも《原爆の図》を収録した画集が、それぞれ出版されています。1952年に青木文庫版『原爆の図画集』が出版されて以来の刊行で、《原爆の図》第6部から第10部までは、このときにはじめて画集に収録されました。虹書房版には、第9部《焼津》、第10部《署名》の加筆修正前の状態が掲載され、資料としても貴重なものになっています。

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写真は上が第9部《焼津》、下が第10部《署名》。《焼津》の右半双に描かれている富士山は後に第五福竜丸に描き換えられました。それぞれ現在の作品と比べてみると興味深いです。
丸木夫妻は、虹書房版刊行の際に「九部・十部はいろいろな点で気にいりませんので、小さく入れることにし、そのかわりに今描いて居ります高野山の摩尼宝塔におさめさせていただく原爆の図二点をこの画集に入れたいと思つて居ります」と記していて、実際、第9部《焼津》と第10部《署名》は他の作品より小さく掲載されています。

《原爆の図》は、60年代に入ると周囲の政治的状況に翻弄され、ソ連から日本に返還されて美術館建設へと向かうことになります。50年代の世界巡回展から60年代の混乱の分岐点となった1959年。オーストラリアからソ連に強引に巡回展を取り上げるかたちになったのも、混乱の前兆のひとつだったのかも知れません。
この時代のことは、もう少し詳しく資料に当たりながらまとめていきたいと思います。
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