2018/10/18

急遽!アーサー・ビナード×加茂昂対談  企画展

午後3時からは、企画展開催中の加茂昂さんとアーサー・ビナードさんの緊急対談。
平日開催にもかかわらず、30人ほどの熱心なファンが集まって下さいました。

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広島や水俣、福島を表現することについて、そして模写という行為を通して得たものについて、アーサーさんの鋭く厳しい質問に、加茂さんが言葉を探しながら懸命に答えている姿が印象的でした。

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最後は加茂さんの方からも、紙芝居を制作中のアーサーさんに、逆質問。一度できあがった表現を、再び解体して表現することの意味について、アーサーさんも丁寧に答えていました。

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こうした機会を通して、丸木美術館で個展を行った表現者に、新たな展開が見えてくることがあれば、本当に嬉しいです。

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火照った頭と体をクールダウンするように、閉館後も加茂さんは、いつまでも帰らずに、玄関ロビーで友人たちと話し込んでいました。

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展覧会はまだまだ続きます。20日(土)は福島県立博物館の川延さんをゲストにお招きして、トークイベントを行います。
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2018/10/18

アーサー・ビナードさん紙芝居完成間近  来客・取材

朝から詩人のアーサー・ビナードさんと童心社の編集担当Nさん一行が来館。「原爆の図」を再構成した紙芝居の制作に取り組んでいるアーサーさんに進行状況を伺い、新たに必要となった「原爆の図」の部分撮影も行われました。

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紙芝居は実演が一番。ということで、実際に「原爆の図」の前で、Nさん、アーサーさん、岡村、そして著作権継承者のH子さんが順番に実演しました。

2014年11月に初めて実演を見たときには『やわらかいはだ』というタイトルだった紙芝居は、『ちっちゃなこえ』に変わり、主人公も女の子から黒猫へ。
最初にNさんの実演を観終わったとき、感覚的に、ああ、ようやくできあがったんだな、と感じました。作者が作品を手放すときが近づいているんだな、と。

実際に自分で演じてみても、とても読みやすかったです。物語にすんなり入っていける。
それは、今までの試行段階では、一度も味わったことのない感覚でした。

もっとも、長年アーサーさん担当を務めてきたNさんは、まだわかりません、作品は、できあがるまでは何が起こるかわかりません、と冷静な姿勢を崩しませんでしたが。

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紙芝居実演終了後には、広島のテレビ局のインタビューを受けました。

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最後の写真は、1950年代に「原爆の図」を入れて運んだ木箱を手に取り、「紙芝居は巡回展と同じだよ!」とよろこぶアーサーさん。

これから、ひとつふたつの小さな波乱はあるかもしれませんが、2019年には、新作紙芝居『ちっちゃなこえ』発売、のニュースをお届けできることでしょう(と私は信じます)。
ご期待下さい。
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2018/10/8

【会津出張おまけ】瀧神社・三石神社  調査・旅行・出張

奥会津フィールドワーク報告おまけ。
只見町に泊まった朝は、早起きをしたので一人で旅館を抜け出し、只見駅近くの瀧神社から三石神社へ。

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只見川の反乱に苦しんだ享保年間の熊野神社の神職が、熊野の戦神スサノオでは水害に効き目がないと水神・瀬織津姫命を祀ったのが瀧神社とのこと。ダムだらけの今を瀬織津姫はどう思っているのでしょう。

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瀧神社の裏の細い散策路を歩いて行くと、次第に山へ入っていき、三石神社へ。

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山中にある三つの巨岩が磐座というのがいいですね。
平安末期、奥州藤原氏討伐の功によりこの地を源頼朝から授かった山内経俊が、夢枕に立った神霊のお告げを受けてこの地に導かれたという。五穀豊穰、家内安全、生業繁栄、開運招福。

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山の上から見渡す町の風景がとても良かったです。

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道なりに山を下りると只見スキー場の方へ抜けていき、朝食の時間に遅刻してしまいました。
ご心配をおかけしました。

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2018/10/8

【会津出張2日目】金山町・上田ダム/昭和村「渡し舟」  調査・旅行・出張

ライフミュージアムネットワークのフィールドワークは、只見駅前の旅館で一泊し、さらに続きます。
午前中は金山(かねやま)町で、「村の肖像」プロジェクトに取り組んでいる写真家の榎本千賀子さんのお話を聞きました。
https://sites.google.com/site/chikakoenomoto/home/project/kaneyama_project

高齢化と人口減の続く地域で、暮らしや労働、民俗行事、そしてダム建設をはじめとした社会の変化を地元の人びとが撮影した写真・映像を収集し、撮影者や年代、場所などの基礎データを整理し、貴重な文化遺産として保管・活用していこうという試みです。
それは、町民自身の視点によって町の歴史を伝える資料であり、文字化されていない記憶を探る手がかりにもなる、と榎本さんは言います。
もちろん、限られた場面の、地域の人が「残したい」と思った記録である(見せたくない、見せられないものは出てこない、と言っていたのが印象的でした)ことには注意が必要ですが、多くの目で歴史を語り伝える手段として、とても興味深い活動です。
それらの写真を地域の人たちで見ながら、呼び起こされた記憶の聞き取りをするワークショップも行っているとのこと。
個人的には《原爆の図》など惨禍の記憶を伝える絵画や、失われゆく炭鉱の家族アルバムを収集した上野英信の『写真万葉録 筑豊』といった事例も想起しながら、「自己表現」の芸術や目に見えやすい町おこしの「アートイベント」だけではない表現の可能性を考えていました。
榎本さんがこうしたプロジェクトに取り組むことになったきっかけは、角田勝之助という金山町の人びとを撮り続けた地元のアマチュア写真家の存在が大きかったそうです。参考までに、こちらが榎本さんの論文。
http://dspace.lib.niigata-u.ac.jp/dspace/bitstream/10191/27836/1/nab_4_13-16.pdf

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榎本さんのお話を聞いた後は、1952-54年建設の上田(うわだ)ダムへ。
榎本さんによれば、敗戦直後にダム建設用地の視察のためアメリカ軍が訪れ(1945年のうちに来たと語る人もいるとのこと)、子どもたちは歓迎のために動員されたそうです。占領下、米兵の姿を目の当たりにした大人たちは、ダム建設反対どころではなかったかもしれません。

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白洲次郎が東北電力初代会長としてダム建設に関わったため、右岸には「建設に盡力したみなさん これは諸君の熱と力の 永遠の記念碑だ」と白洲が記した石碑が建っています。

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ダムを渡った左岸には、建設工事で命を落とした10名の名が刻まれた慰霊碑もありました。
榎本さんによれば、その10名に地元住民の名はないとのこと。ダム建設に際しては、男女を問わず地元の人たちが優先的に雇用されましたが、危険な労働にはまわされなかったそうです。地元の人が亡くなることで、反対運動が激しくなることを恐れたのでしょう。

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また、集落の水没・移住だけではなく、外部から稼ぎに来た人との結婚や、現金収入を得た経験が若者の流出を加速させるなど、ダム完成後の人口減といった問題も生じたようです。
ダム建設には、軽犯罪・保釈間際の囚人たちも動員されており、1941-46年建設の宮下ダム(三島町)には朝鮮人徴用工が働き、1952-54年建設の本名(ほんな)ダム(金山町)竣工後には、日本人妻も含めた朝鮮人労働者の家族の多くが帰国事業で北朝鮮へ渡っていった話なども、時代を反映しているようで興味深く聞きました。

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写真は、上田ダムを撮影する榎本さん。自身も地域の写真を撮り続けています。

* * * * *

午後は昭和村へ移動し、地域の伝統工芸からむし織の後継者を育成する「織姫制度」を体験して村に定住した渡辺悦子さんと舟木由貴子さんの、不定期オープンの店「渡し舟ーわたしふねー」でお話を伺いました。

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からむし、と呼ばれる植物から生まれる織物は、武士の裃などの材料に使われ、古くから雪深い昭和村の貴重な生産品として、山向こうの新潟に出荷されていました。
しかし、やはり高齢化と人口減によって、からむし織も廃れ、20数年前に技術継承のための「織姫」と呼ばれる体験生制度がはじまったそうです。

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外部から村にやってきた体験生の存在は、当初は決して村の人たちに理解されたわけではなかったようですが、からむし織に真摯に取り組む「織姫」たちの姿勢が少しずつ認知され、「織姫」たちも畑や織仕事を通して村の暮らしの良さを学び、やがて村の人と結婚して定住する「織姫」も現れるようになったとのこと。
渡辺さんと舟木さんも子どもを育てながら、からむし布を使った小物の生産販売や裁縫ワークショップ、昭和村の今を伝えるお話会を村の内外で開催しているそうです。
とはいえ、からむし織だけで生計を立てることは難しい、と二人は言います。その現実は「織姫」の後輩たちにも必ず伝えています、と。

今回のライフミュージアムネットワークのフィールドワークでは、(私は参加できませんでしたが)土曜日の初日に三島町の生活工芸館も訪れていました。
宮下ダム建設中の大好況と完成後の人口減に翻弄された過去を持つ三島町は、外部の力による町おこしに頼らず、古くから伝わる編み組細工などの生活工芸に力を入れるようになった、という報告を聞きました。ダム建設と無縁だった昭和村の取り組みも、そんな三島町の選択と似ているのかもしれません。
だからといって現実は厳しく、決して人口減が解消されるわけではありません。地域の緩やかな衰退が止まるわけでもありません。
それでも、この地域でしかできないことを継承し、記憶を伝え続けるという真っ当な姿勢の意味を、考えずにはいられませんでした。
そして、これから日本全体が人口減に向かっていく中で、大幅な入館者増が見込めるわけではない丸木美術館が、どのような道を歩むべきかということも、考えずにはいられませんでした。

昭和村の帰り道には、柳津町の斎藤清美術館にも立ち寄りました。
https://www.town.yanaizu.fukushima.jp/bijutsu/
現代的な木版画で国際的に評価された斎藤清の個人美術館で、かつては斎藤清の作品のみを展示していましたが、入館者減に悩み、現在は美術大学とのコラボレーションなどの企画も行なっているそうです。
こちらも少し丸木美術館の状況に似ていますが、歴史を継承しつつ、何ができるかを考え続けることが必要なのですね。

決して馴染みがあるわけではない、というより、正直に言えば、地名を聞いても位置関係さえよくわからないほど不慣れであるにもかかわらず、丁寧に説明しながら多くの場所を案内し、人を紹介してくださった福島県立博物館の皆さんには、本当に感謝。とても考えることの多いフィールドワークでした。
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2018/10/7

【会津出張初日】田子倉ダム・ふるさと館田子倉など  調査・旅行・出張

広島市現代美術館で足立さんの講演を聴いた後は、台風の進路と重なるように福島へ移動。
広島では強風で新幹線が止まっていると聞いたので、駅まで行って動かなかったら諦めよう・・・と思っていたのですが、広島始発の臨時列車にうまく乗れ、それでもダイヤは大幅に乱れていたので、東京駅で東北新幹線の最終列車に間に合わなければ家に帰ろう・・・と覚悟していたところ、辛うじて間に合い、郡山で一泊。
今朝は磐越西線で会津へ向かったものの、途中強風で列車が停まり、ようやく動き出したと思ったら、架線に枝が引っかかって撤去作業。今度こそ半分諦めて、会津若松で待つライフミュージアムネットワークの皆さんには、先にフィールドワークへ行っていただくようお願いしたのですが、結局、2時間遅れで列車は会津若松駅に到着しました。
駅ではネットワークの事務局をつとめる福島県立博物館の学芸員の二人が待っていてくださり、只見町の田子倉ダムでその他のメンバーと合流すべく、車で急ぎました。

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学芸員の皆さんの尽力にもかかわらず、残念ながら最後はわずか10分ほど間に合わず、発電所内部の見学ツアーに参加することはできなかったものの、全国屈指の規模を持つダムのスケールを体感し、その後は、田子倉ダムの直下流で放流水量を調節する只見ダムと、J-POWER(電源開発株式会社)の只見展示館を見学。

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さらに、田子倉ダム建設の際に湖底に沈んだ旧田子倉集落の記憶を伝える資料館「ふるさと館田子倉」や、「ただみ・ブナと川のミュージアム」も見て回りました。

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只見町は、冬には4-5mを超える積雪量となる厳しい環境でありながら、ブナを中心にした豊かな自然が残り、古くから農林業や採取、狩猟、漁撈(ツキノワグマやサクラマスなどが獲物だったそうです)をなりわいとする暮らしが営まれていました。
しかし、1959年に首都圏に電力を供給する水力発電ダム建設のため、旧田子倉集落は湖の底に沈みました。当時の集落には50戸290人が暮らしており、移転交渉の難航や反対運動が社会問題として注目されたそうです。
「ふるさと館田子倉」には、皆川文弥・弥親子が個人で収集展示していた、ダム水没前の暮らしを伝える狩猟や漁撈の用具を中心とした資料が残されています。

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ダム建設反対運動を記録した写真には、「金は一時 土は万年の宝」「魚は水に生き 農民は土によって生きる」といった貼紙も見られました。
つい先ほど見たばかりの静かな湖面の底に存在していた集落の全景写真には、しばらく目を奪われました。1950年代はじめの撮影とのこと、すでにダム計画が決まっていて、空撮をしたのでしょう。写真からは、そこに暮らしがあったという生々しい空気感が立ち上がってきます。

田子倉ダムは、総工費約348億円、建設に携わった人員延べ約300万人という大事業。絶景で知られるJR只見線も、もとは田子倉ダム建設のために敷設されたそうです。
田子倉発電所は、一般水力発電所として日本有数の規模となる(建設当時は日本最大だった)認可出力38万kWを有しています。
その送電線(只見幹線)が、現在私が住んでいる埼玉県川越市や生まれ育った東京の多摩地域を経由して、町田市まで繋がっているということを、恥ずかしながら初めて知りました。宮崎駿監督のアニメ映画『となりのトトロ』で猫バスが疾走する送電線も、只見幹線のようです。
自分が生まれてから現在にいたるまでずっと使い続けてきた電力が、この場所から送られていたとは。原発事故だけではなく、福島のエネルギー供給と自分たちの生活が密接に関わっていることを、あらためて考えました。
この機会に、小山いと子『ダム・サイト』や城山三郎『黄金郷』、曽野綾子『無名碑』など、田子倉ダムを舞台にした文学作品も読んでみようと思います(『ダム・サイト』はかなり入手困難のようですが)。
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2018/10/6

広島市現代美術館・新しい骨董  調査・旅行・出張

少し前のことになりますが、広島市現代美術館「丸木位里・俊ー《原爆の図》をよむ」展の初日に、ファッションブランド「途中でやめる」主宰の山下陽光くんに、彼らの企画である「新しい骨董」の展示の案内をしていただいたのでした。
「“新しい骨董”とでもいうべき何か」を探求する実験企画を体感するためには、展示を見るだけではなく、一見無価値と思われる〈モノ〉に、〈意味〉をつけることで価格がついた(それもチープな)ミュージアムグッズを購入し、「コレクター」になるべきだろうと思ったのですが、初日の慌ただしさの中で機会を逸してしまったことが心残りでした。

ところが今回、すでに展示は終了していたにもかかわらず、なぜかミュージアムショップでは「新しい骨董」の販売が続いていたので、一見きれいな、しかし何に使うのかよくわからないガラスの装飾具?を、赤と緑の2種類購入しました。
店員さんに声をかけると、立派な陳列ケースから恭しく商品を取り出し、「新しい骨董 NEW ANTIQUE」と手書きされた(それもチープな)袋に、丁寧に入れて下さいました。
これで、自分もささやかながら「新しい骨董」のムーヴメントに参加したような気分になったのです。

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すると、近くで一部始終を見ていた欧米系と思われる外国人観光客の女性が興味を持ったようで、店員さんに英語で「あれは何か?」と質問したようでした。
一見きれいだし、ちょっと〈価値〉がありそうに見えなくもないし(本当は無価値だけど)。
振り返ると、店員さんがうまく説明できずに困っていたので、何だか、いい光景を見てしまったな、と思いました。
一瞬の出来事で、観光客の方もすぐに「ああ、いいわ」というふうに引き下がってしまったのですが、やっぱり自分も説明責任を果たすべきではなかったかと、少しばかり後悔しました。
しかし時すでに遅し。きっとこれからも、「新しい骨董」のコレクションを見るたびに、この日のエピソードとも言えないような中途半端な記憶が、ほろ苦さとともに蘇ることになるのでしょう。
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2018/10/6

広島市現代美術館・足立元講演「「原爆の図」の片隅に」  館外展・関連企画

広島市現代美術館の地下ホールで、足立元さんの講演「「原爆の図」の片隅に」を聴講。
モノ(絵画)としての《原爆の図》と、メディア(運動)としての「原爆の図」という表記の区分けを提唱した上で、メディアとしての「原爆の図」を、@プロレタリア芸術運動史の視点から、A同時代のアヴァンギャルド(主に日本美術会、前衛美術会)との対比によって、再考するものでした。

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「モニュメント」「複製芸術」「共同制作」「移動展」「メディアミックス」といったプロレタリア芸術運動の(多くの場合、果たせずに挫折していく)「夢」を、「たった二人の画家」がことごとく成功させてしまった理由を、足立さんは《原爆の図》という絵の強度を前提にしつつ、「革命へのファンタジー」か「無数の死者への想像力」か――つまり「イデオロギーよりアイデンティティ」――という言葉を使って、現在と結びつけながら考えます。

そして、もっぱら俊の平易な文章と多弁の力が大きかったのですが、「原爆の図」は言葉を重視する展示・鑑賞・教育の新しい社会運動のシステムを構築し、「同時代の他のアヴァンギャルド芸術を吹っ飛ばした」というのです。

いち早く「美術」の枠を脱していく活動は、前衛美術会の仲間から(やっかみとも思えるような)批判を受けたこともあり、丸木夫妻は《原爆の図》発表後、早々に前衛美術会を退会します。しかし、結果的には批判した画家たちも「原爆の図」を追いかけるような形で、「美術」という枠を超えていくことになるのです。

もちろん、「原爆の図」の勢いも決して長続きするものではありませんでした(占領下〜占領集結・原爆表現解禁の1950年代前半がひとつのピークと言えます)が、その後も「美術」を逸脱するがゆえに何度も否定され、そのたびに「呼び戻されてきた」状況について、足立さんは「モノ」としての強さ以上に、周囲のすべてを社会化する特別な価値が「原爆の図」にある、と結論づけていました。

絵画として《原爆の図》を読みなおす今回の広島市現代美術館の企画展も、「原爆の図」の運動の一部であることを逃れられないのではないか。私たちは《原爆の図》を見ているようで、すでに「原爆の図」の歴史の一部になっているーーつまり、私たちひとりひとりが「原爆の図」の片隅にいる、というのが、某漫画を引用した講演タイトルの種明かしでした。

それは、「原爆の図」の片隅で日々を過ごしている学芸員にとっては、納得のできる話でした。
《原爆の図》という絵画の「受容史」を調査していたはずの仕事が、いつのまにか「社会運動史」として評価される(足立さんにもそう紹介されました)宿命を、実感してきたからです。

ほかにも私の未見だった資料(1952年12月『海員』の「誌上封切映画物語」ー映画『原爆の図』記事、1950年6月『三田文学』八代修次「原爆の図を見て」、1951年9月『交替詩派』原啓「原爆の図展覧会を見て」など)の紹介や、岡本太郎・敏子との対比など、興味深い部分はいくつもありました。

今回の講演の内容は、次回1月発行の『丸木美術館ニュース』で、あらためて足立さんに報告していただきたいと考えています。
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2018/10/6

峠三吉資料・丸木夫妻書簡調査  調査・旅行・出張

昨日の夜に広島へ移動し、午前中は広島市中央図書館で、峠三吉資料に入っている丸木夫妻の書簡調査。
峠資料については、広島市現代美術館のS学芸員が、峠や四國五郎との交流の一端を示す書簡を「丸木位里・俊ー《原爆の図》をよむ」展でいくつか紹介してくださっていますが、実際には1950年秋から1953年3月の峠の死後の和子夫人宛なども含めると16通の書簡が現存しています。

その中で最初に書かれたと思われる書簡(資料番号832)は、峠資料のリストには1951年とありますが、内容から1950年(消印は9月11日)で間違いないでしょう。
お手紙ありがとうございました。原爆の詩当地でずっとよましてもらってございます。廣島に峠さんのような人のあることをうれしく力強く思って居ります」という書き出しからはじまる書簡は位里の文字。
15日には広島に入ること、一度三滝の家を訪ねてほしいことなどが記され、「廣島でこの展らん会がうまく出来ればとも思って作品だけは持って行くつもりです」「今はこのことについては何もぐたいてきにははこんで居りません」と記されているので、全国巡回どころか、広島で本当に展覧会が開催できるのか、不安を抱えていたことがわかります。もちろん展覧会は、峠ら「われらの詩の会」の協力により、1950年10月5-9日の会期で実現するのですが。

その後も書簡のやりとりは続き、翌1951年に峠がガリ版『原爆詩集』を自費出版すると、丸木夫妻に巡回展で売ってほしいと依頼したようで、丸木夫妻は単価が高いので売れないだろう、近頃は巡回展も圧力が強まってやりにくくなっている、と返信しています。このあたりの書簡は、今回の広島現美展で紹介されています。

1952年4月に連合国軍の占領が終わり、原爆報道が解禁されると、青木書店からいち早く文庫版画集『原爆の図』が発行されますが、その際、丸木夫妻が峠の詩を青木書店社長の青木春雄に紹介し、『原爆詩集』出版(青木文庫版は1952年6月発行)の橋渡しをしていたことが、資料番号267の青木から峠宛の書簡(1952年3月7日消印)であらためて確認できました。

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写真は、「われらの詩の会」に宛てた、丸木夫妻からの画集『原爆の図』刊行のお知らせ。当時、全国でお世話になった巡回展関係者に送られたのでしょう。
峠から丸木夫妻に宛てた書簡の方は行方がわからないのが残念ですが、峠資料の丸木夫妻書簡については、そのうちにきちんと整理してまとめておきたいと考えています。
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2018/9/30

いわさきちひろ生誕100年記念 松本猛講演会  イベント

台風の迫る中、何とか無事に、いわさきちひろ生誕100年記念 松本猛さん講演会「母、いわさきちひろの生涯と丸木夫妻との交流」を開催。
集まった方は30人弱と当初の想定を大きく下回りましたが、皆さんとても熱心に聴いてくださり、猛さんのご著書『いわさきちひろ 子どもへの愛に生きて』は仕入れた15冊がすべて完売しました。

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講演は、前半はできるだけ客観的な視点で「知らない画家を発掘する」ように書かれたという著書の内容に沿いつつ、後半は「ちひろが画家になるために重要であった」丸木夫妻との関係をメインにしたものでした。

ちひろは1946年5月に長野から単身上京した際、人民新聞社の編集長だった江森盛弥に連れられて丸木夫妻のアトリエを訪れ、その後、夫妻の主宰する早朝デッサン会に通って絵の勉強をすることになります(その様子は、今秋上演される前進座の舞台「ちひろ」でも演じられます)。
http://www.zenshinza.com/stage_guide4/chihiro/

「一本の線に責任を持ちなさい」「千枚描きをすれば絵は変わる」という俊の教えを受けた当時のちひろのデッサンは、陰影のつけ方などの特徴が、俊の絵によく似ている、と猛さんは指摘します。

師弟というより姉妹のようだったという二人は、いっしょに温泉に出かけたり、俊が挿絵の仕事をちひろに世話したりと親しく付き合い、ちひろが俊からケーテ・コルヴィッツを、俊がちひろから宮沢賢治を知るなど、互いに影響を与えあっていたようです。

しかし猛さんは、ちひろはむしろ位里の水墨画の影響を強く受けていた、と言います。
「丸木さんの絵はすごい、自由だ」
「丸木さんの梅のようには、なかなかいかない」
と、本人もたびたび話していたとのことで、具体的に作品を比較しながら、にじみやかすれ、たらし込みなどの偶然性を生かす技法に位里の影響があることを指摘していました。
こうした分析は、2006年の富山県水墨美術館「いわさきちひろ展」あたりから行われるようになったと記憶しています。

とはいえ、「ちひろは形にこだわるからデッサンを崩せない、だから位里の形がなくなるような絵に憧れたのでは」という猛さんの話を聞きながら、その感覚(と、自らを作りかえようとする資質)は、やはり俊に似ているのでは、とも思いました。俊もまた、初期の力強いデッサンから、位里の影響を受けて、後年は水墨のにじみを生かした柔らかな線に移行していくのです。

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丸木夫妻が中心となって1947年に創立し、ちひろも参加していた前衛美術会は、やがて方向性を巡って会員が離脱し、後には桂川寛や勅使河原宏、山下菊二らが小河内村の山村工作隊に参加していきますが、早々に退会した丸木夫妻に続いて、ちひろも退会し、紙芝居や絵本などの「童画」の世界に進みます。

東京ステーションギャラリー「いわさきちひろ展」図録で足立元さんは、そうした彼女の“転向”について論じていましたが、そもそも初期の前衛美術会の活動には(俊の主導により)「童画」も含まれていたのではないかということが、個人的には気になっています。

俊やちひろにとって、「童画」と「前衛」は必ずしも相反するものではなかったのではないか。
近く二人について書く機会があるので、このことについてはもう少し調べて、まとめておきたいと思います。
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2018/9/28

【大阪出張】釜ヶ崎ココルーム見学  調査・旅行・出張

今日も、やはり「ライフミュージアムネットワーク」のリサーチとして、大阪・釜ヶ崎の「ゲストハウスとカフェと庭・ココルーム」を訪ね、NPO法人「こえとことばとこころの部屋」の代表で詩人の上田假奈代さんの話を聞きました。

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“寄せ場”と呼ばれる日雇い労働者の町としての歴史を持つ釜ヶ崎。上田さんはそこで居場所のない人たちが立ち寄れる「場」をつくり、ともに学ぶことのできる「釜ヶ崎芸術大学」を立ち上げています。

お昼時になると、庭に面したテラスでスタッフや滞在者、ふらりと来た人?たちといっしょにカレーライスを食べました。

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ちょうど7か月も長期滞在していた若者が就職のために旅立つ日だったり、数日前に急死したおじさん(身寄りのない人をみんなで送る「見送りの会」という活動に惹かれて堺市から釜ヶ崎へ移り住んできた方だという)の葬式に見ず知らずの私たちまで参列することになったり、単身高齢生活保護受給者の社会的つながり事業の拠点である「ひと花センター」で上田さんの担当する合作俳句の会に参加したり、この「場」の日常の一端を、側から覗き見るような時間を過ごしました。

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来る者拒まずという「場」の空気感からは、私が初めて丸木美術館を訪れたときの印象がよみがえってきました。
誰がスタッフで、誰がボランティアで、誰がお客さんだかわからない混沌かつ対等な人間関係。世間では生きづらさを感じている人が、ここでは自分らしく振る舞うことができるという「場」。
もちろんそうした思いには個人差があるし、時間とともに変質していく部分もあるけれども、肩書きや年齢ではなく、お互いひとつの命として向き合うという「場」でありたいという思いは、今も丸木美術館に流れているはずです。

もちろん、釜ヶ崎には釜ヶ崎の必然があり、丸木美術館の「場」とは意味が大きく異なるところもあります。
それでも、この「場」をもう少し見てみたい、ここから丸木美術館に持ち帰れるものを考えてみたい、と思って、11月の大阪出張に合わせて宿泊予約をしました。
釜ヶ崎に泊まって人権博物館(リバティおおさか)で講演をするというのは、何だか真っ当な気がしたのです。
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2018/9/27

【静岡出張】クリエイティブサポートレッツ見学  調査・旅行・出張

「ライフミュージアムネットワーク」のリサーチとして、浜松市で活動するクリエイティブサポートレッツの活動を視察。

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運営拠点となっている障害者福祉サービス事業所アルス・ノヴァ と、のヴぁ公民館を見せていただきました。

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「障害」のある方の特別な作品に注目するというアートの現場がある一方で、レッツの活動は、誰かに評価されるわけでもないのに、その人が熱心に取り組んでいることを、「表現未満、」の個人の文化活動と捉えて、最大限に尊重しているといいます。
高みを目指して表現するだけではない、一見「無意味」に思える行為を繰り返したり、何も作り出さないことさえも、他者に哲学的な思考を促すという点で、彼らの「シゴト」であるとする視点の転換が、この施設の重要な核となっています。

そうした多様な生き方を体感し、思考する機会を、施設の外側にいる人たちとも共有するために、レッツでは、これらの施設を開放し、泊まりがけで彼らとともに過ごす時間と空間を提供する「観光事業」を行なっています。

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私たち一行はわずか数時間の滞在でしたが、スタッフの説明を受けつつ、途中からはほぼ放置され、濃密な時間を過ごしました。
クレヨンを塗ったときにできるカスを丸めて小さな玉を作り、5列×5列均等に並べる人を観察したり、異質な訪問者である私たちに仲間たちの動向を延々と説明し続ける人の話を聞いたり。
ひたすら音を出し続ける人、飛び上がる人、お菓子を食べる人、テレビゲームに熱中する人、何もせずに横になっている人・・・ここで起きていることを見逃すまいと、次第に目と耳の感覚が研ぎ澄まされていくのを感じました。

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その体験は、私にとっては、赤松俊子(丸木俊)の「絵は誰でも描ける」という1950年代の大衆芸術論や、それをさらに先鋭的にした「あらゆる人間は社会を彫刻しうる」というヨゼフ・ボイスの「社会彫刻」を想起させる「アート論」のようにも感じられました。

施設の利用者が帰った後は、代表の久保田翠さんをはじめ、スタッフの方々とディスカッション。
久保田さんの息子さんが「障害」を持って生まれたことがきっかけではじまったというレッツの歴史や、現場の人たちのレッツとの出会いの話を聞き、福島で立ち上がった「ライフミュージアムネットワーク」とは何か、何ができるのかという展望について、さまざまな意見の交換を行いました。

「現場」は当事者のいるところ。悲惨さがクローズアップされるだけでは快くない、という声があり。
しかし悲惨を乗り越え、繰り返さないためには怒りのエネルギーが必要という意見があり。
現実を主体的に生きる「現場」に対し、「ミュージアム」は思考を促す(解きほぐす)ための編集装置ではないかという話が出てきたり。

決して明確な答えを見つけるためのディスカッションではないのですが、丸木美術館にもかかわるような多くの問いをいただいてきた気がします。
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2018/9/22

『朝日新聞』に徳応寺版「原爆の図」模写紹介  掲載雑誌・新聞

現在、丸木美術館2階の小展示室では、1956-7年に愛知県岡崎市の小学生が手がけた「原爆の図」模写が展示されています。
岡崎市の徳応寺が所蔵している11点の掛軸で、「模写」を通り越して、独自の世界へ突き進んでいくようなエネルギーあふれる作品です。

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その展示を、朝日新聞の西堀岳路記者が紹介して下さいました。

60年前の小学生「原爆の図」模写 東松山で展示
 ―2018年9月22日『朝日新聞』朝刊埼玉版

https://digital.asahi.com/articles/ASL9N52HKL9NUTNB00K.html

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以下、記事より一部抜粋です。

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1956年、市立小の教師が平和教育の一環で5年生たちに原爆の図の画集を見せたところ、恐ろしさに心を動かされた子どもたちが模写に取り組み始めたという。
 自分たちでシジミを売るなどして紙や画材を買い、30点を目標に6年生になっても描き続けたが、市教育委員会から「思想的だ」と批判されたため、11枚目が未完成のまま制作を中止。焼却されるところを地元の徳応寺が引き取った。1985年から毎夏、寺で公開しており、今回初めて寺の外に貸し出されたという。


 (中略)

 子どもたちの模写は1メートル〜1・8メートル四方で、画集を基にしたためか原画の一部分を拡大して描いている。原画のようなリアルさはないが、苦しむ人々の目や口など、子どもたちが強い印象を受けた部位が大きく描かれ、線も太い。原画にはある余白もなく、そのぶん人物が大きいため迫力がある。

 学芸員の岡村幸宣さんは「そっくりに描かせず、素直な感性に任せた指導がすばらしい。模写とはいえ違う絵のような個性と勢いがある」と評価する。


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展覧会は10月8日まで。ぜひ皆さま、加茂昂展と合わせて、ご覧ください。
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2018/9/19

中国放送「原爆の図を紙芝居に」  TV・ラジオ放送

2018年9月18日にRCC中国放送でオンエアされたアーサー・ビナードさんの番組「イマなまっ! アーサーと潜水の広島モグリ」の期間限定(11月25日まで)無料動画配信です。

http://play.rcc.jp/selection/imanama_180918.html

テーマは「原爆の図を紙芝居に」。
広島市現代美術館「丸木位里・俊―《原爆の図》をよむ」展の初日の盛況ぶりも紹介されています。
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2018/9/16

「丸木位里・俊《原爆の図》をよむ」展と峠宛て書簡について  館外展・関連企画

広島市現代美術館で開催中の「丸木位里・俊《原爆の図》をよむ」展は、丸木美術館が所蔵する《原爆の図》初期三部作と、広島市現代美術館が所蔵する再制作版の《原爆の図》を比較展示することを目的としてはじまりました。

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また、《原爆の図》に注ぎこまれた丸木夫妻の戦前から続く絵画の実験や、峠三吉との交流をはじめとする広島とのかかわりも紹介され、見ごたえのある内容になっています。

丸木美術館の企画としては、これまでにも「原爆の図をめぐる絵画表現」(2004)や「原爆の図はふたつあるのか」(2016)などを開催していますが、今回のように他館――それも広島で、《原爆の図》の成立過程と展開の一端を紹介していただけるのは本当にありがたいことです。

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もっとも、今回新たに公開された赤松俊子(丸木俊)から峠三吉宛ての書簡のひとつ(展示番号4-13)の翻刻には、明らかな誤りが見つかりました。
展示パネル・図録に掲載された書簡の翻刻の内容は次の通りです。

京都同学会主催の原爆展であなたの影の詩は日に三十回も朗読されたでしょう。丁度わたしたちの第五部作少年少女の向いにあったのです。‟影がある”‟影がある”と、くりかえしくりかえし京大の文学部の人人が朗読しては感想をのべていたのです。そうして十日間は無事に終わりました。四国五郎さんの弟より又申出ありました。わたしはこれでわたしの責任を果たしたような気持ちです。

四國五郎の弟・直登は1945年8月に被爆死していますから、「申出」があるはずがないと、展覧会初日からお気づきになった方もいることでしょう。

確かに難読箇所ではあるのですが、正確には「四国五郎さんの弟よも見事でありました」と読みます(私もすぐに誤りに気づいて担当学芸員に指摘したものの、結局読み解けず、歌人の相原由美さん、俊の弟の赤松淳さんにご教示いただきました)。

実際、1951年7月、京大同学会主催により京都の丸物百貨店で開催された綜合原爆展には、峠の詩「影」とともに、四國の詩「心に喰い込め」が掲示されていました。その詩の中で、「弟よ」という言葉が印象的に使われているのです。俊が「見事」と褒めているのは、「心に喰い込め」で間違いないでしょう。

この件は広島市現代美術館にもお伝えしたので、近日中に修正が入る予定です。すでに展示をご覧になり、図録を手もとにお持ちの方は、修正をお願いいたします。
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2018/9/15

加茂昂展「追体験の光景」オープニングトーク  企画展

加茂昂展「追体験の光景」オープニングトーク。
あいにく雨模様となりましたが、集まってくださった参加者に対し、1時間にわたって作家自身による作品解説が行われました。

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1982年生まれの加茂さんは、「震災の後ぐらいから、自分が絵を描くことで社会に対して何ができるかということを考えるようになった」と言い、2017年に知人から広島で展覧会を開催する話をもらったことをきっかけに、市民が描いた「原爆の絵」の模写に取り組みました。

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本人や遺族から模写制作の許可をとり、線の一本一本や、筆の動きを想像して「描きながら見る」という行為。それは体を動かし、頭を使い、目で見るというかたちの「追体験」であったと加茂さんは考えます。

一方で、描いた方たちと出会うことで、「追体験」はあくまで「直接体験」とは違う、わかったような気持ちになっても、常に「ずれ」があり、その「ずれ」を考えていくことが重要だ、とも気づいたそうです。

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加茂さんは、みずからの作品に、市民が描いた原爆の絵の中から印象深かった要素を取り入れ、再構成して《追体験の風景》として制作していきます。

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そうした経験を通して、「原爆という大きな出来事も、実は個人の記憶の総体として存在しているのかもしれない」と考えた彼は、体験者らの肖像と原爆の記憶の二重像を描きました。

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その手法は、福島第一原発事故の帰宅困難区域に自宅のある大学時代の友人家族の一時帰宅に同行して制作した絵画にも用いられています。

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水俣の隣にある津奈木町で滞在制作をした際には、汚染された水俣湾を埋め立てて造られた公園・エコパーク水俣に、この場所で起こったことを記憶するために水俣病患者らが設置した石彫をスケッチしました。

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不知火海の朝夕の光景と石彫を描いた絵画をならべて設置し、遥かな過去と未来を想像し、つなぎあわせていく「祈り」をテーマにしたインスタレーションも発表しています。

このとき加茂さんは、熊本の方言である「のさり」という言葉に出会い、衝撃を受けました。
「のさり」とは授かりものという意味で、水俣病患者の漁師が「水俣病も、のさり」と受け止めていることを知り、「祈り」と「のさり」という言葉を抱えて、再び福島へ向かうのです。

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今回の展覧会の最後に設置された作品は、福島の帰宅困難区域の境界に設置されているフェンスを描いた絵画です。
フェンスの内側を見つめる加茂さんの想像力は、いつの間にか境界を反転させ、自分自身の姿をフェンスの向こうに描いています。加茂さんによれば「人為的なものを超えた超人為的な」空気や時間や光が、その人影を包み込んでいます。

一見、明るく色鮮やかなグラフィック・デザインのような絵画ですが、加茂さんの「追体験の光景」は、痛みをいかに分有できるか、という姿勢で丸木夫妻の共同制作につながります。
また、2016年に丸木美術館で回顧展として取りあげた広島の画家・四國五郎は、加茂さんが模写した市民の描いた原爆の絵の募集の呼びかけにかかわっています。
同時開催として展示中の岡崎市の小学生が描いた徳応寺版「原爆の図」模写も、模写による追体験という点で、加茂さんの作品とつなげることができそうです。
そんな、さまざまなことを考えながら、作品解説を興味深く聞きました。

10月20日(土)午後2時15分からは、福島県立博物館の川延安直さんと加茂さんのトーク「広島と水俣と絵画を通して福島を考える」を行います。
展覧会の会期は10月21日(日)まで。
見応えあり、です。
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