ー哲学とはどういう学問かー「現代と哲学」講義に入る前にーー
ファンタジーから登場してもらい、上村陽一君と三輪智子さんに榊周次先生に質問してもらいます。
陽一:前期に「哲学入門」があり、後期に「現代と哲学」があります。ただ「哲学入門」をとらなくても「現代と哲学」を選択できますので、最初の「哲学」とは何かを説明する授業は、哲学が初めての人にも分かるように説明する必要があり、どのように説明してよいか迷われるでしょう。
榊:確かに、そうですね。特に今回は『ビジネスマンのための西田哲学入門』を教材にしようという企画ですので、その道案内にもなるようにということですので、余計に悩ましいところです。
智子:でも「案ずるより産むが易し」でざっくばらんに「哲学」について語っていれば、それが哲学とは何かの説明に成って行くのではないでしょうか?
存在の不安
榊:三輪さんは哲学といえばやはり『ソフィーの世界』のイメージでしょうね。
智子:この世界に生まれてきて、やがていろんなことがあるだろうけれど、死んでいくでしょう。生まれてきたことも不思議だし、死んでいくことも納得できない。そして過去というのも記憶としては観念でしかないし、未来も現在からの類推にすぎない、今だってたちまち過去へと消去されていく、だから存在が確かなものではないのではないかという不安ですね。
その不安を、「ソフィーの不安」と名付けたのです。なぜなら自分をリアルな人間ではなくて、虚構の存在、つまりファンタジーの登場人物でしかないのではないかという不安がソフィーの不安だからです。
こういう存在の問題を考えるのが哲学のイメージですね。
陽一:存在の不安という形而上学からいきなり、入られると経済系の学生は退いてしまうのではないですか、でもやはり不安があるから、何かしっかりした筋の通った、一貫した捉え方生き方を求めて哲学しようとするのかもしれません。
特にバブル経済崩壊後の一九九〇年代からの長期的なデフレ不況の中で育ってきた現在の日本の学生は、右下がりの感覚で、奈落へ向かっているのではないかという不安を抱えているかもしれません。その意味でその不安から脱却できる道を哲学に求めるということも考えられますね。
榊:上村君も死への不安が根底にあって、生命科学の研究者を目指したり、鉄腕アトムになったりしたわけだけれど、三輪さんの場合は存在の不安を感じたり、その意味を考えたりするいわば「見る」のが哲学なのに対して、上村君は存在の不安を解決すべき課題としてそれを何とかする方法を考えるのが哲学なのですね。
智子:なるほど、私は確かにこの存在の不安が何とかできるとは思ってもみないことで、何とかしてやろうとも思っていませんね、その意味を考えて、存在の不安と折り合いながらどう生きていけばいいのかという発想です。陽一君の方が確かにアクティブと言えますね、
陽一:そう言われてみれば、そうですね。今までファンタジーの世界でしか活躍できていませんが、鉄腕アトムにしてもヤマトタケルにしても、自分の生きている世界の課題を一身に背負って、たとえ身は砕け散ってもの意気込みで頑張ってきましたからね、本当はすごく臆病なアカンたれなんですが。ファンタジーの世界での体験はすごく肥やしになったとは思います。でも実際のリアルなビジネスの世界は、ファンタジーとはまた違って意気込みだけでは空回りの連続でしょうね。
そもそも哲学とは
榊:哲学講義の第一回は、そもそも「哲学」とは何かを主要テーマにしなければならないのです。そうでないと、それぞれが勝手に思い描いている哲学に囚われるので、これが哲学かとなってしまいますから。特に「ビジネスマンのための西田哲学入門」となりますと、西田哲学が難解な上に、そもそも哲学とは何かわかっていないということで、何も分からずに終わってしまうことになりかねません。
陽一:しかし、哲学者の代名詞であるソクラテスが何も知らないという無知を自認しているわけでしょう。もちろん哲学とは何かも分かっていないわけですね。
智子:哲学(フィロソフィー)という学問があったわけではないでしょう。タレスなどのイオニア学派から哲学が始まったということになっているけれど、それは後世の哲学者の哲学史の中での話ですね。
つまり世界が何で出来ているかなんていう根源的な問いに答えているから哲学だということになったわけで、タレス自身が哲学という言葉を使っていたわけではありません。
榊:その通りです。古代ギリシアにおいては学問ははっきりと分かれているわけではありません。ですからすべて哲学だとも言えるわけですね。学者はソフィスト(智者)を自認していたわけで、知の教師としてシンポジウムに呼ばれて話をしたり、個人教師をしたりしていたわけです。学園ができてからはその教師もあったのですが。
陽一:ソクラテスは智者や賢者といわれる人々に議論をふっかけて、相手の矛盾を指摘して、破綻に追い込み、無知を認めさせる「無知の知を生む産婆術」といわれる対話法を行っていて、全くのアマチュアで一銭も利益を得なかったので、家に戻ると妻のクサンチッペから水をぶっかけられていたということですね。
榊:ええ、全く身につまされる話ですね。何も確実なことは知らないことを前提に、みんなが納得できることをみんなで見出して、それを出発点にみんなで納得できる普遍妥当的知を積み上げていこうという発想です。
だから自分は無知だから智者ではないけれど、真の知を愛し求めている愛知者(フィロソファー)なんだということです。それで愛する(フィロ)と知(ソフィー)を組み合わせたのです。
智子:それじゃあ哲学と訳さないで愛知とか愛知学と訳せばよかったですね。ソクラテスの知に対する謙遜のニュアンスが哲学では消えてしまいます。
陽一:愛知だと趣味的に知識を求めるように日本ではとられるからですね。ソクラテスは「肝心なのはただ生きることではなく、善く生きることだ」という意味で実践的な知を求めていたわけです。
榊:西周(にしあまね)が苦労して「哲学」にしたのですが、「哲」は深く考えるということで、知識を吟味して正しく連関させて使えるようにするというような意味合いで「哲学」としたのです。
智子:とすると、哲学というのは既成の知識を吟味して、誰もが納得でき、用いることができる知識かどうかをはっきりさせることだということになるのですか。存在の意味を問うというのもそこに含まれるということですか。
榊:哲学から数学や力学や天文学が分化し、経済学や政治学なども分かれると、哲学はそれらの知を成り立たせている論理を極める学問や、それらでは扱っていない存在の意味を問うたり、人間とは何かとか、歴史の意味とかそういうのを哲学という学科で教えたのです。哲学を狭い意味で、形而上学・論理学・認識論・人間学と捉えるのはそういう事情ですね。
陽一:よく哲学というのは頭の中でこさえあげた真理の体系で現実を頭ごなしに批判する学問だという哲学批判がありますね。その場合の哲学は、狭い意味の哲学ですね。
榊:ええ、ソクラテスも既成の知を独断論として批判したわけで、ベーコンもギリシア哲学批判もそうですね。しかしそういう既成の知批判も、それ自身一貫した論理で整理された知の体系を成さなければ、信頼性がないので、どうしても形而上学にならざるを得ません。いくら鋭い批判をしていても、その人がどういう論理を使い、どういう認識の仕方をしているか、それらがきちんと整合性がなければならないでしょう。つまり哲学批判も、哲学として後世から評価されるのです。
智子:他の学問と別に哲学があるのではなくて、他の学問も知の体系に含まれているという意味で、知を愛することが哲学なら、どんな学問も哲学に含まれるということですか。
榊:ええ、すべての学問はそれが学問である限り、物事を原理からつまり根底的に一から考え直したものであり、一貫した論理で展開したものでなければならないのですから、その意味で哲学です。
陽一:物事を一から根底的に捉え返して、誰もが納得できる一貫した論理で体系的に知識を積み重ねることが哲学だという捉え方でいいのでしょうか?物事を深く考えることが哲学であって、それ以上に哲学に注文を付けたら哲学じゃなくなるという人もいるようですが。
榊:それなら宗教も独断論もみんな哲学だということになってしまいます。哲学は、学であるということですね。そのためには批判や吟味に耐え、誰もが納得できるものでなければならないということです。
智子:しかし独断論も、タレスにしても、デモクリトスにしても存在の原理を展開したということで哲学に含まれています。先生の言い方だとそれらは哲学じゃないことになりますね。
陽一:厳密に言えば、そうなるかもしれませんが、独断論に対する批判も、結局独断論になります、そういう形で知が発展するわけですね。そうして以前の独断論を克服していく知の展開が哲学だということになるのでしょう。
榊:そうなんです、知というのは既成の不完全な知を批判的に吟味して、発展させていくプロセスなのです。そこに学の営みとしての哲学があるわけです。だから個々の哲学を切り離してそれだけ取り上げたら、独断論で哲学じゃないということになります。
智子:デカルトは実験観察の結果確かめられた知も含めて、すべて方法的に疑い得るとしたうえで、疑っている我の存在は疑えないという「我思う故に我あり」を哲学の出発点においたけですが、ところが「考える我」からあまりにも安易に神とか、物質存在を演繹してしまって、独断論になってしまった、その面は次の哲学で批判されなければならないということですね。
榊:その場合に個々人の主観が勝手に考えるようにとらえるから、そういう主観性を長い哲学的精神の発達が克服していっていることに気付かないのです。哲学史は各哲学を相対化して、哲学的精神が自己の主観的な一面性を克服していくプロセスとして叙述する学問です。
ビジネスマンのための西田哲学とは
陽一:ビジネスマンのための哲学といいますと、それはビジネスの方法を哲学的に根本から変革して、画期的な知識創造の理論をつくろうということですか?
智子:それも含まれるでしょうが、倫理学も学である限り哲学ですから、ビジネスマンの生き方やビジネスに対するとらえ方、心構えなどを問い直すということが主な狙いでしょう。だって西田哲学入門という限定があるわけですから。
榊:確かにビジネスマンは利益を上げるというのが大きな目的で行動しますから、いかに効率的に利をもたらすかの方法論なら、功利主義やプラグマティズムの哲学を語ればいいわけですね。わざわざ西田哲学をビジネスマンに説くというのは、ある意味精神的な態度とか、生き方、心構えを考えるということになります。
しかしそういう面も大いにあるのですが、そもそものきっかけは知識創造理論の大御所である野中郁次郎先生の経営革新研究会で、西田哲学を解説するように頼まれたのがきっかけなのです。
つまり知識創造において暗黙知を共有し、それを形式知にして知識創造して革新し、それをまたみんなの暗黙知にしていくプロセスがSECI理論というのですが、それを展開するのにどうしても西田哲学の純粋経験や場所の論理が必要だということなのです。
陽一:なるほどそれは面白い展開ですね。日本的経営というのが戦後の高度経済成長では大きな役割を果たしたわけですが、日本的な経営の論理にも欧米の哲学や倫理学では捉え切れないものがあり、西田哲学だと理解できるということもあるかもしれませんね。知識創造理論だって、西田哲学でないと展開できないとなると、その解明しだいでは、日本的経営の持つ可能性みたいなものがつかめるかもしれません。
智子:でもこの長期デフレでほとんど日本的経営は息の根を止められたのではないですか。ともかく西田哲学でビジネスを考えればいろんな問題が見えてくるということ期待できそうですね。
榊:ともかくビジネスマンにとって西田哲学は教養としても大切ですし、方法としても大変役に立ちそうです。

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