------------キリスト教理解が間違っているか?----------
倫理学入門の提出課題の学生のコメントで、やすいゆたかのキリスト教理解が全般的に間違っていると指摘してくれているコメントがありますので、一応見解を示しておきます。問が学生のコメント内容、答がそれに対する説明です。
------------------1、予定説について---------------------
問 『ヤマトタケルの大冒険』の序盤で「神は信仰したくても信仰できるものではない、神から選ばれた者に神の方からやってくるものだから、信じたくなくても信じてしまう4頁下」と書いていますが、聖書には神が全ての人の心の戸を叩いていることを明言していますし、「主は全ての人が信仰に入り、救われることを望んでおられる」ともしています。
答 テキストの考え方は予定説と言われるもので、ルターやカルヴァンの考え方の中心にあるものです。ユダヤ教やキリスト教には選民思想があり、終末に復活してパラダイスに入れる人は初めから予定されていると思われています。
たしかに信徒たちはできるだけ多くの人に布教して、沢山の人々を救う努力をしますが、その努力の結果救われる人は予め神の予定に入っているのだということです。
「ヨハネ黙示録」にこうあります「ラオデキヤにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。」ヨハネがキリスト教会内で反対派に警告しているのです。イエスの意向はこうだぞということですね。
「すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって悔い改めなさい。見よ、わたしを聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。勝利を得る者には、わたしと共にわたしの座につかせよう。それはちょうど、わたしが勝利を得てわたしの父と共にその御座についたのと同様である。耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい」
パウロの「テモテへの手紙二」に次のように書かれています。
「17 しかし、主は、私とともに立ち、私に力を与えてくださいました。それは、私を通してみことばが余すところなく宣べ伝えられ、すべての国の人々がみことばを聞くようになるためでした。私は獅子の口から助け出されました。」
確かにイエスは、多くの人に二つの愛に生きるように、メシアとその聖霊による救いを信じるように言葉を宣べ伝えようとしましたが、「命のパン」の教説にしてもそれで多くの弟子たちが離反しましたし、エクソシズム(悪霊追放)のパフォーマンスも、かえってイエスには悪霊の親分ベルゼブルがとりついているという悪宣伝で、母や弟たちが心配して引き取りにくるという逆効果になってしまったのです。
まさしく贖罪の十字架は、イエスが命を投げ出して、人々の心の戸を叩いた事件でもあったのです。しかしそれでもイエスを救い主つまりキリストだと信じる人は少数なのです。
パウロ自身、命がけでイエスを信じる人々を捕まえるユダヤ教の側にいた弾圧者だったのですが、復活のイエスの声で回心し、キリスト教の指導者になったのです。
パウロは忍耐強く布教しますが、彼にしても、終末までにすべての人々が回心できるとは考えていません。やはり大部分の人々は終末の裁きで、ゲヘナの苦しみが待っているだろうというのがキリスト教会の捉え方なのです。
ーーーーーーー2、死後すぐにパラダイスに入れるか?−−−−−−
問 すぐに天国に入れるわけではないと書いていますが、イエスが十字架にかかり、その両側に掛けられていた犯罪者の内の片方が悔い改めたとき、イエスは「あなたは今日私と共にパラダイス(天国)にいる」と言っています。
答 先ず引用しておきます。
ルカ23:39~43「十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、『あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。』と言った。
ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。『おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。 われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。』
そして言った。『イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。』
イエスは、彼に言われた。『まことに、あなたに告げます。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。』」
この箇所の解釈は、処刑されても甦って、天国に一緒にいけるのだと読めますね。しかし、イエスが復活したのは日曜日の朝です。そして昇天したのは一人ですね。ですからこの言葉は実現されていないとも解釈できます。それとも神の国、御国とか天国とかパラダイスには別の意味があるのでしょうか?
ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねられてイエスはこう答えておられます。
「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(ルカ17・20〜21)
イエスたちの宗教運動は、バプテスマのヨハネが「神の国は近づけり」と言って、地上に神が降りてきて、直接神が支配される時が近づいたので、その時に裁きを受けたら間に合わないので、今のうちにバプテスマ(洗礼)を受けるように呼びかけたことがきっかけです。
つまり彼らは死後すぐに昇天するという信仰をもっていませんでした。終末論といって、いずれ歴史が終焉し、その時に神が地上に降りて、歴史を総括する裁きを下され、義と認められた人は復活させられて、地上にできる楽園(パラダイス)に迎え入れられるという希望を抱いていたのです。
ですから死者が天にある神の国つまり天国に迎えられて、神の許にいるという信仰は『旧約聖書』には見当たらないのです。例外としてエリヤの昇天があります。それはエリヤが高齢になり、死期を覚りまして、弟子エリシャに後を託し、火の戦車に乗って昇天するという話です。これは弟子エリシャが後継者としての正統性を主張するために作ったお話でしょう。
でもエリヤの昇天を信じている人がいて、イエスが十字架に着けられるときに、エリヤが天から降りてきて、イエスを救うのではないかと期待していた民衆もいたようです。
イエスも基本的には終末の裁きを信じている終末論者です。ですから死後、一般人が復活して昇天するという発想はありませんし、魂だけが昇天するという発想もありません。魂だけが昇天して天国でハッピーになれるのでしたら、わざわざ復活信仰は必要ありませんね。
終末論でいう来世というのは、終末後の復活させられた世ということです。来世で天国に入るというのは、地上が神の支配する神の国になり、そこで暮らせるということなのです。
ただし「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」という場合は二つの愛、神への愛と隣人への愛に今生きている人々は、愛である神とともにあるので、神の国に生きているということが言えます。これは死後や来世ではなく、現世の今が我々の愛に生きる生き方の中に神の国が到来しているということなのです。
ですからイエスが十字架に共に就いている罪人に今日パラダイスに居るというのはその意味で言ったとも解釈できます。それは絶命までの刹那とも言えますが、人類はみな罪人であり、イエスとともに愛に生きようとしているのは、超歴史的なことで、それは「永遠の現在」なのです。
そういう意味では、宗教的な境地においては、過去や未来は「永遠の現在」に回収されて、今もイエスも罪人も我々と共に生きていると言えるかもしれません。それは決して、死後すぐ昇天するという意味ではないのです。
ーーーーーーーーー3、イエスの聖餐をめぐってーーーーーーーーーー
問 次にイエスが弟子たちに十字架の後に食べられたという仮説ですが、そもそもいわゆる「聖餐」と言われるものは、イエスが十字架にかけられる前にしたと書かれていますし、イエスが十字架にかけられる少し前に弟子たちはほとんどが逃げ出しています。
答 イエスが十字架に掛けられる前に、イエスはユダヤ人の民衆に捕まえられてユダヤ最高法院で裁判にかけられました。その前にいわゆる「最後の晩餐」があり、「パンと赤ワイン」による「主の聖餐」の儀礼がありました。
この儀礼は「パンと赤ワイン」をイエスに見立てて食したのですから、あくまで模擬的な「主の聖餐」であり、いわばリハーサル(予行演習)なのです。「マタイによる福音書」にはこう記されています。
「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、『取って食べよ、これはわたしのからだである』。
また杯を取り、感謝して彼らに与えて言われた、『みな、この杯から飲め。これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である。あなたがたに言っておく。わたしの父の国であなたがたと共に、新しく飲むその日までは、わたしは今後決して、ぶどうの実から造ったものをのむことをしない』。」
さてイエスがたとえ神あるいは神の子だとしても、イエスがパンをイエスの肉だといったらパンはイエスの肉になり、赤ワインはイエスの血になるでしょうか?
ユダヤ教は伝統的に超越神論であり、神が動植物や食材であることは有り得ません。また金属や木や土で作られた偶像であることはありません。
つまりフェティシズムや偶像崇拝は退けられているのです。その上で、パンがイエスの肉であり、赤ワインがイエスの血であるというのはどういう意味でしょうか?
イエスは間もなく捕まえられて、裁判に掛けられ、十字架に磔にされることを予感しているのです。その際に言った言葉です。
これは見立てだということが分りますね、今はパンをイエスの肉と見立てて、パンを食べ、ワインをイエスの血と見立てて飲みなさい。そして処刑されたら、同じように「犠牲の仔羊」となった私の肉を食べ血を飲みなさいという意味です。
もし最後の晩餐のパンをイエスの肉だとイエス自身が考えていたとしたら、イエス自身が未開信仰に退行してしまったことになります。
弟子たちがみんな逃げてしまったというのは、誤解です。イエスが捕まえられて処刑されたのですから、弟子たちも安全でなく、身を隠しましたが、遺体の引き取り、埋葬は弟子が行なったことになっています。白い布(聖骸布)で覆ったのも弟子です。日曜日の朝墓地でマグダラのマリアは復活のイエスに遭遇し、エマオやエルサレムのアジトでのイエス復活体験でも弟子たちがエルサレムにいたことを示しています。
ーーーーーーーー4、聖餐は単なる比喩か?−−−−−−−−−
問 先生は何か勘違いをしているようですが、パンをイエスの肉体だと言っているのは単なる比喩表現です。イエスは聖書でよくたとえ話によって教えていますが、その中に「私は命のパンです。私のもとに来るものは決して飢えることがなく、私を信じるものは決して渇くことがない」と言っています。
現在も行われている聖餐式は信仰を示すためのもので、本当に神を食べているわけではありません。因みに、イエスの体のたとえがなぜ肉ではなくパンなのかというと、「出エジプト記」で神が自身の民イスラエルに与えたのがマナという名のパンだったからです。
答 たしかに生きている時にはイエスの肉を食べたり、血を飲んだりできませんから、イエスの「命のパン」は「イエスの言葉」の比喩であるという解釈でいいでしょう。イエスの言葉に従って生きることで、飢えたり渇いたりしない、充実した生き方ができるという意味です。
でもそういう比喩としてだけ語ったのなら、ガリラヤのカファリナウムのイエス教団の弟子たちが大量に離反するようなことが起こったでしょうか?では問題の『ヨハネによる福音書』を引用しましょう。(6章41〜59節)
「すると、ユダヤ人たちは、イエスが『わたしは天から降ってきたパンである』と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、こう言った、『これはヨセフの息子イエスではないか。わたしたちは父親も母親も知っている。どうして今さら「わたしは天から降ってきた」などと言うのか』。ー中略ー
『アーメン、アーメン、わたしはあなたがたに言う。信じる者は永遠の命をもっている。わたしは命のパンである。あなたたちの先祖は荒れ野でマナを食べたが、死んだ。これは天から降ってきたパンであり、それを食べる者は死ぬことはない。わたしは、天から降ってきた生けるパンである。人がこのパンを食べるならば、永遠に生きるようになる。そして、わたしが与えることになるパンとは、世の命のためのわたしの肉である』。
するとユダヤ人たちは互いに激しく議論し始めて言った、『この男はどうして自分の肉をわれわれに与えて食べさせることができるのか』。そこでイエスは彼らに言われた、『アーメン、アーメン、わたしはあなたがたに言う。あなたたちは、人の子(メシア=救い主のこと)の肉を食べ、その血を飲まなければ、自分たちの中に命はない。
わたしの肉を噛みしめ、わたしの血を飲む者は永遠の命を持ち、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉こそまことの食べ物であり、わたしの血こそまことの飲み物だからである。
わたしの肉を噛みしめ、わたしの血を飲む者は、わたしの中にとどまり、わたしもその人の中にとどまる。生ける父が私を遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを噛みしめる者はわたしによって生きるようになる。これは天から降ってきたパンであり、先祖たちが食べたが死んでしまったようなものではない。このパンを噛みしめる者は、永遠に生きるようになる』。
これらのことは、イエスがカファルナウムの会堂で教えて語られたものである。 」
このカファリナウムの説教では、先祖は神が降らせたマナを食べて生き延びたが、結局はみんな死んでしまった。私こそ本当の命のパンだから私の肉を食べたら死ぬことはないと言っています。私の肉の代わりにパンを食べても死なないとは言っていません。
それでパンは食物という物質だから、食べても肉体的な生命はいずれは死ぬけれど、イエスの言葉を「命のパン」だとすると、精神は不滅だから、死なないとも解釈されます。では、イエスの肉体が亡びる時にどうでしょう、イエスの肉は「命のパン」ではないのでしょうか?そして何故わざわざ最後の晩餐で、イエスの肉を食べ、血を飲む聖餐の儀礼を行なったのでしょう。
イエスの死に当り、何が最も重要な事でしょうか?それはイエスが宿している聖霊を弟子たちに引き継ぐということです。何故聖餐を行うのかも聖霊を引き継ぐためと考えれば納得がいきます。イエスの肉や血の中に宿っている聖霊が聖餐によって引き継がれるという発想です。
つまり聖霊も悪霊も霊はつきものだと捉えられていて、それで悪霊追放という儀礼が最もイエス教団の売りになっていたのです。肉や血は消化されて排泄されますが、食べた人の中に聖霊は留まるということなのです。 続く

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