単元単位制導入論争の記事は重複しますが、「週刊やすいゆたか」としてですので、あえて掲載します。
--------単元単位制導入論争、「ちきゅう座」で論議-------------
「ちきゅう座」というWEBのメディアで私が提案している単元単位制の導入を巡る議論が起こっているので、ここに紹介し、広くこの議論への参加を求めたい。
ーーーーーー学年制を廃止し単位制にせよーやすいゆたかーーーーーー
大阪市の橋下市長が小中学校にも留年制をということだが、私は学年制そのものを再検討すべきだと思う。もう大量生産時代ではないのだから、すべての科目で一斉に進級という必要はない。各科目、到達目標に達したら次の段階に進むという単元単位制度でいい。
年に一回の単位認定ではなく、四回か五回ぐらいは行って、単元ごとに単位認定して、進めていく。単元ごとのクラス編成をすればいい。そうすると教師が足らないから、先に進んでしまった生徒は自修でパソコン機器などを使って先に進むようにする。
単位を落とした生徒は補習で追いつかせる体制もとらなければならない。その際も教育機器を活用すべきだが、マンツーマン体制での指導も必要になってくる。ただその生徒の個性や発達度に合わせて無理のない指導をしないといけない。
年齢による到達度という固定観念を一度払拭して、各児童生徒の個性や発達度、到達度に合わせた目標を設定して、成長させていくのが本来の教育の在り方である。その意味で留年制の導入は頭が古すぎるのだ。
なんといっても、学力は国際競争力の土台であり、その観点からも大量生産方式から個別学習重視の個性伸長促進型の教育、あわせて基礎学力重視の教育体制をとって、日本の国民教育の水準を飛躍させなければならない。もっと実験的な試みをすべきだ。
橋下提案に対して留年可哀想論で抵抗するのでは本末転倒である。到達していないのに次に行かせるのも不合理なら、到達しているのに次に行かせないのも不合理である。
本人の到達度に合わせた教科毎、単元毎のクラス編成と、教育機器を活用し、マンツーマン指導ができる自修および補習体制を整えること。国造りの基礎にこの教育改革を据えておかなければならない。でないと日本沈没は避けられない。
http://www.chikyuza.net/
ーーーーーーーー小中学校への単位制導入論への疑問ーーーーーーーーーー
宇井 宙
橋下徹大阪市長が小中学校にも留年制を導入すべきと発言したことに関連して、やすい・ゆたか氏は「留年可哀想論で抵抗するのでは本末転倒」であるが、留年制の導入論も「頭が古すぎる」のであり、むしろ学年制そのものを廃止し、「各科目、到達目標に達したら次の段階に進むという単位制度」を導入すべきだ、と主張しておられる)。具体的な制度構想としては、次のような案を挙げておられる。
(a)年に一回の単位認定ではなく、四回か五回ぐらいは行って、単元ごとに単位認定して、進めていく。単元ごとのクラス編成をすればいい。そうすると教師が足らないから、先に進んでしまった生徒は自修でパソコン機器などを使って先に進むようにする。
(b)単位を落とした生徒は補習で追いつかせる体制もとらなければならない。その際も教育機器を活用すべきだが、マンツーマン体制での指導も必要になってくる。ただその生徒の個性や発達度に合わせて無理のない指導をしないといけない。
やすい氏がそのように主張される根拠は以下のようなものである。
@もう大量生産時代ではないのだから、すべての科目で一斉に進級という必要はない。
A各児童生徒の個性や発達度、到達度に合わせた目標を設定して、成長させていくのが本来の教育の在り方である。
B到達していないのに次に行かせるのも不合理なら、到達しているのに次に行かせないのも不合理である。
C学力は国際競争力の土台であり、その観点からも大量生産方式から個別学習重視の個性伸長促進型の教育、あわせて基礎学力重視の教育体制をとって、日本の国民教育の水準を飛躍させなければならない。
このように、やすい氏の提案は極めてドラスティックでユニークなものだが、私は賛成できない。以下、その理由を述べる。
教育社会学者の藤田英典氏によれば、進級や進学を決める制度には課程主義・習得主義と年齢主義・履修主義があるが、前者は年齢に関わりなく、所定の課程を習得したかどうかによって進級・進学を決めるのに対して、年齢主義・履修主義は年齢と通学・履修を条件として進級・進学を決める制度である(『義務教育を問いなおす』ちくま新書、91頁)。
日本では小中高では年齢主義・履修主義を採用しており、大学では課程主義・習得主義を採用している。留年制と単位制はともに課程主義・習得主義の一種であるが、やすい氏の主張される単位制は学年制の廃止とセットになっている分だけ、習得主義を徹底したものと言えるだろう。そこで、単位制導入の是非を考えるうえでは、やすい氏によれば「頭が古すぎる」留年制を採用している欧米諸国の経験が参考になるだろう。
藤田氏によれば、留年制度を採用している国の経験的知見によれば、留年した生徒は、その後も低学力層に留まり続け、自尊心の低下や劣等感の定着、学習意欲のさらなる低下、学業態度・生活態度の悪化などの問題を抱えるようになり、さらには非行やドロップアウトに至るケースもあるうえ、留年者を受け入れるクラスでは教師の指導や学級運営面での困難が増大するという。また家庭環境や地域・階層などの社会的背景が劣位の子どもは留年する確率も高く、教育機会の不平等を拡大することにもなるという。
さらに、PISAやTIMSSといった国際学力比較調査によれば、留年制の有無と学力との相関関係は確認されていないという(前掲書255〜259頁)。このような経験的知見に基づく留年制の弊害やデメリットは、単位制を導入すれば一層拡大するのではないだろうか。
単位制の具体的な帰結を考えても、中には3年程度で小学校を卒業する子どもが出てくる一方で、10年以上かけても卒業できない子どもたちも出てくるのではないだろうか。このような制度が、子どもたちと学校にとっていい影響を及ぼすとは考えにくい。
また、そもそも義務教育の意義・役割は、すべての子どもに基礎的な学力をつけることにあることは言うまでもないが、それだけに還元されるものではないだろう。
それと並んで、子どもたちが集団生活を通して社会性や共同性や豊かな人間性を育むことにもあるのではないだろうか。
そうだとすれば、共通教育の場である義務教育の学校は、一人ひとりの子どもが独立した人格として尊重される場であると同時に、多様な文化的背景や興味・関心を持つ子どもたちが平等に共生する場でもなければならないだろう。
学力のみによって児童・生徒を選別する単位制は子どもたちの間に歪んだプライドと劣等感を生み出し、学校を多様な子どもたちが共生する場から、序列化と差別的構造の場に変えてしまう危険性が大きいように思う。
藤田氏によれば、アメリカの大学関係者の間でときおり使われる表現に「ハッピー・ボトム・クォーター(幸せな低学力層)」という言葉があるそうだ。名門エリート大学でも、学力優秀者ばかりでは、キャンパスライフも学習活動も活発なものにはならず、学力面では多少劣っていても、クラブ活動や各種のイベントでリーダーシップを発揮したり、普段の授業でも活気とユーモラスな雰囲気を作り出したりすることのできる学生の存在が重要だというのである。
どのような社会も、その活力と成功は、その場に参加する多様な個性と能力を持つ人々が認め合い、協力・協働してこそ維持され発展する、と言う意味で、ボトム・クォーターが幸せであることが、その社会が成功しているメルクマールである、というのである(同書263頁)。義務教育の学校にも必要かつ有効な視点ではないだろうか。
ーーーーーー教育と研究の場での単位制についてーーーーーーー
石塚正英
やすいさんと宇井さんの書き込み、これぞ公共空間メディア「ちきゅう座」が求めているものです。
私は、大学での単位(従量)制に関して利点と欠点を実感しています。個々の単位は落としても学年がないので落第しない。1講座〇〇〇円で履修するわけだから、卒業に必要な単位だけをとればいい。こうした制度は合理的で無駄がないので、学生とその家族にはありがたいものです。大学を「学士」資格取得の場とだけ考える場合、この制度は利点です。
ですが、4年間、留年がないから単位の取りこぼしがあっても時間だけが経過する。そして卒業年度に悲劇が起こります。もともとギリギリの単位数しか登録しないから、つねに単位不足の状況にある学生は多い。
さて、大学で得るものは資格のみではないでしょう。大学で学ぶものは個々の専門(知識・技術)でもなく、それを通じての人間学的教養です。
その高みや深みに入っていくには偶然の出会いが必要です。法学者の三谷太一郎は、かつて『みすず』第276号でつぎのようなこと述べました。歴史研究者は想像力を触発するような史料に遭遇すると、その史料のために、いや、その史料を引用したいがために、一本の作品を構想する、と。
これです。遭遇、これが大学での学問研究の基礎です。「遊び」といってもいいでしょう。「道草」といってもいいでしょう。単位制はこの「遭遇」「遊び」「道草」から学生を限りなく遠のかせてしまうのです。ただし、私のように、アラカンすぎても歴史知のフィールドで遊び惚けていると、遊びはもはや仕事になっておりますがね。遊んで生活する、これぞ「偶然」のなせる技!
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ーーーーー単位制導入論への宇井さんの批判に応えるーーーーーーーー
やすい・ゆたか
宇井 宙さんから私の単位制導入論への批判をいただいたので、じっくり検討させていただくことにする。今回は大雑把な形で述べておきたい。まず学校という近代教育制度はもうぼちぼち耐用年数がきたのではないか、イリイチはいみじくも「学校へ通ったら馬鹿になる」と言ったが、それが大変鋭い批評になっているのが現実である。
宇井さんは私が既成の学校制度を前提に小中学校への単位制導入を考えていると勘違いしておられる。小中高大などというのはおよそナンセンスである。大学生が方程式の初歩を勉強している実態を御存知ないのだろうか。大学という名前があれば大学か、そんなことがいつまでも通用するだろうか。
単位を修得したら上に行くというのは、当然のことで、それにどれだけの期間がかかるかは個人差があって当然である。
別に10歳までに微積分が解ける子供がいてもいいし、50歳になってから数学に興味をもって微積分を解けるようになってもいいわけである。実際、今一番勉学意欲があるのは、60歳からの熟年大学の生徒たちである。
だいたい子供の内は学校で、大人になってから働いて勉強しなくてもよいというのは間違っているので、子供の内から少しは仕事をさせ、大人になってからも学問ができるような制度にしていくべきで、そのための労働時間の制限や学習システムも作っていくべきである。
宇井さんは留年制の弊害が単位制にしたらひどくなるというが、学年制をなくしてしまえば、得意な科目は大学レベルの学問ができ、不得意な科目は中学レベルの基礎を学べるのだからこれほどありがたいことはないのではないか、そのことについては何も触れておられない。
歪んだ劣等感やプライドを持つのは、その人が十分に個性を伸長させられないからである。得意な科目はどんどん進め、不得意な科目は基礎をしっかり固めて進めていけば、遅れも取り戻せてくるはずである。
留年になったりするからコンプレックスになってしまうのだ。それによく理解できていないのに次の単元に進めたりすると、つまずきの原因になることはだれもが分かっていることで、きっちりフォローする体制をつくることで弊害は除ける筈である。
同年齢でのクラス活動については、地域コミュニティの問題に共同で取り組むホームルームなどを作ったり、サークル活動を義務化するなどできることはいくらてもある。
私は学校も産業活動をすべきだと考えており、年齢に応じた仕事というのがあれば、それをさせればとよいと思う。
それに教育力がその国の経済力の基礎であることを考えれば、個性を伸長させ能力を存分に開花させられる教育ができなければ、学力問題は解決できず、「沈みゆく列島」は止められないのではないか、ただ反対というだけでは説得力がない。
いまや教育は危機的状況にあり、抜本的に一から考え直すべきである。そして単元ごとの単位認定制を実験的にやってみることを奨めたい。
http://www.chikyuza.net/ (次号に続く)
『長編哲学サスペンス 沈みゆく列島―スーパーヒーロー孫明道伝』あらすじ
前篇の『崩れゆく学園』は榊周次の白昼夢ということだったので、そこから再開する。大手門高校出身の作家倉吉良造は、御木本校長に、上海の民主化運動の地下活動家孫智仁の息子孫明道が日本の高校に留学したがっているという、彼は孫文の五世の孫で稀にみる優秀な成績で、しかも日本に父の仕事の関係で住んでいたことがあり日本語も流暢だという。大手門高校の生徒たちに刺激になるので受け入れるようにすすめた。
早速七月初めから孫明道は、大手門高校に登校してきた。なんと彼は上海で榊周次のホームページを勉強しており、『鉄腕アトムは人間か?』も読んでいたのである。きっかけは榊周次の『中国思想史講義』らしい。
孫が受けた榊周次の最初の授業は「日本浄土教」で、日本浄土教が、法然に至って、専修念仏になると、既成の経典も修行も教団も寺塔もすべて要らないことになり、ただ「南無阿弥陀仏」だけ唱えればよいことになったので、既成の仏教教団から排撃され、ついには遠流になった話である。
孫は浄土教が慈悲の実践を追及するあまりに仏教自体の自己否定、文化革命に至った話に哲学を感じ、熱心にその意義を論じる生徒たちに感動した。
早速放課後社会科準備室で、孫明道は榊周次や上村陽一、三輪智子と話しているうちに、中国共産党が、改革開放政策のもとで全面的に資本主義的な発展を遂げているにもかかわらず、なぜ共産党の看板を掲げ続けるのかという話になった。
そこからそもそもマルクス主義とは何かという議論になった。疎外論は官僚主義や市場の失敗、国家財政の破綻、環境問題などの批判に使えるという話になり、疎外論の由来や四つの疎外について、検討した。議論が盛り上がったが、下校時間になったので、榊周次は日曜日に自宅に招待して孫君の歓迎会をしようと提案し、マルクスの続きは榊先生の自宅でおおいに論じようということになった。(次号に続く)

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