“変身忍者”と呼ばれてE最終回  音楽…他

連投失礼。

Dの続き。最終回。
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前回ラストに貼るつもりが忘れた。

閉店を発表された時は「まんが道」の漫画少年の廃刊の回のようだった。
森安なおやみたいにキャバキャバ(とは言わないが)と嘆く人や坂本三郎みたいに筆を折る(までは行かないが活動しなくなる人はいた)人や。
オレはそれほどショックではなかった。
早い段階で危うい話は聞いていたしそれを日記に書いて遠回しにクレームが入ったりした事も。
知っていたから歌謡プロレスでなんとか動員を増やそうと躍起になった。
最近でも「命を削るライブ」と評されるが、イベントに命を賭けていた。

自分の力不足で閉店になった悔しさが大きかった。
偉そうに!
そう思われる当時の関係者もいると思う。
勝手ながらBOXINGLEE'S CAFEの絶対的エースと思っていた訳で、オレにもっと実力や人気が付けばという思いがあった。
30から初めて、燻って、冴えなくて、迷っていた時期から2年弱で“変身”したのだから、自分でも大したもんだと思いたいが…無念であった。

その後はR-1に挑戦してお笑いライブに出たり、八王子に拠点を置いて「歌わず嫌い王決定戦」「フィーリングカップル」などバトル系の企画ライブを立ち上げたり、墓石式脳天ドライバーというバンドで映像使った企画やったり、2010年台に入るとワンマン連発したり氣志團にケンカ売ったり、他にも様々な事をやって来たがボクリーの延長でしかなかったような気もする。

いつしか歌もギターも上手くなったというか太くなった。
真面目くさった歌で全開勝負も出来るようになった。
こんなもんだとは思ってないが知名度も付いた。

だが、まだ“変身忍者”の名前は取れないでいる。



あれから12年、癌になり、途切れた縁も再び繋がった。

LEEさんと再会した時、お見舞いを頂いた。
封筒には「ファイトマネー」と書いてあり、狙った訳ではないのだろうけど、まだまだネーミングセンス、衰えてなかった。

奥さんがそのファイトマネーという表現にいたく感激し、「曲が作れるんじゃない」と言った時、既にボンヤリとオレも思い描いていた。

最後にその曲のデモを動画にしたので貼り付けます。
限定公開なんで、このブログにしかURL貼らないからここまで読んでくれた人しか観れないような感じになってます。
共有したくなったらしても構いませんが。

https://youtu.be/U8Kr7Pbldg4

https://m.youtube.com/watch?v=U8Kr7Pbldg4&feature=youtu.be

どうも長々とありがとうございました🙇




6

“変身忍者”と呼ばれてD  音楽…他

Cの続き

ボクリーでは沢山の刺激を貰った。
まだ30半ばで年上が多かったのもある。
高橋よしあきさんは店に行き始めた頃にワンマンを観てただギター弾いて歌うだけが弾き語りじゃないんだと思ったり、敬々さんはライブ終了後にやたらと難しい話をして半分くらいしか分からなかったがその半分から脳ミソ絞り出して返答したり。
テキサスさんは一番対バンした人だと思うが、どっちが先でも後でもなにかしらステージ上で仕掛けてそれを受ける(その逆も)ような事をしていた。
後で「佐藤さんのかれこれに対しての返しをあれこれでしてみたんだよ」みたいな会話をしたりしていた。
自由に出来たのはお客さんが少なかったのも、ある。

余談だが誰だったかお客さんゼロの日に対して何か嘆いていたら「オレが居るじゃないか」とLEEさんが言っていた。
そういう所も好きだった。
来たばかりの頃から「経営が危うい」と言っていたのに。

テキサスさんとのやり取りが歌謡プロレスの元になったのはあるかも知れない。
あとは毎月やってた「改造人間コマネチ」という企画。
ステージにマイク1本。後は取り決め無し。
その日参加できる複数のレギュラーがDJの音を聴いて探りながらパフォーマンスする。
さながらバトルロイヤルといった様相で、観たお客さんからは「映画を観てるみたい」とか好評なんだが観た人は少なく、観るまでのなんというか動機というかそういうチカラがなかったか。
その2つの要素がオレの頭にはあったのかも知れない。

2005年の6月くらいに日記で「企画をやるとするならば」と、歌謡プロレスの原型みたいな事を書いた。
ステージに2本のマイクを並べてステージを進行する。
プロレスとは書いてなかった気がするし書いていたような気もする。

ある日、LEEさんから話があった。
「お前の日記のアイディアを貰っていいか?」
その頃、敬々さんがみちのくプロレスとちょっとした繋がりがあり、そういう諸々の話を総合したようだった。
「名前は”新東京歌謡プロレス”」
素晴らしいネーミング。
この名前が全てを物語り、全てを想像させた。
未だにこの名称を越えるイベント名を見た事がない。
敬々さんが「グレート敬々ザ・ピストル」と名乗り、オレとの61分1本勝負が決定した。
分かる人には分かるがこの“61分”にするセンス。素晴らし過ぎる。

他に取り決めはなかった。
歌でプロレス?
どうやるの?答えはない。
61分、全てが2人のプロレスセンスに託されている。
事前に出来る事は何も無い。
1つだけ、「ロックアップ(序盤で見る肩を組み合うムーヴ)みたいな感じでギターかき鳴らしてネックを交差するムーヴやりません?」と持ちかけた。

後々「歌合戦みたいなもの」と言った人がいた。
結局プロレスを知っていても知らなくてもその人の人間力というか、出来ない人は出来ない。
プロレス好きなミュージシャンは沢山いるが、佇まいにプロレスラーを感じる人は少ない(良い悪いは別)しプロレスを知らなくてもレスラーらしいミュージシャンもいる。

プロレスは受けが重要でどんな木偶の坊スターでも受けが出来る悪役によって試合が成り立つ。
プロレスは肉体のコミュニケーションだと思う、技の掛け合いで会話しているというか。
技の組み立てでストーリーも変わる。

歌合戦のように垂れ流す訳ではない。
後年1曲づつ交互に歌うのが暗黙の了解のようになり、オレも仕方ないから合わせていたが全く違う。
旗揚げ戦はオレが連続で歌ったりしていたし、そこに意味があった。少なくともオレにはあった。ハズ。
あの曲ならこの曲、そうかそうきたか、ならば…
旗揚げ戦は確かに歌で会話していたし試合しながら「こういうやり方か?」と吸収しながら進めた。
スクワットで相手を巻き込むという今も使うやり方もその試合中に突然思い付いた。
タイムキーパーがテキサスさんだった。
体感ではとっくに61分過ぎたハズなのに、なかなかゴングが鳴らない。
テキサスさんを意識しながら進めていたオレにアイコンタクトだったかゴングを鳴らす仕草だったか、とにかくテキサスさんが「行くぞ」と声を発さず言った。
オレは突然「金魚のフン」を勢いよく始めた。
ゴングが鳴った。
オレは演奏をし続けた。
レフェリーがオレを羽交い締めにして終了した。

歌でプロレスだし、カウント3が入る訳ではない。
その終わり方もアドリブで出来た。

投票による勝敗により、G-MOSTに続く2冠王になった。

前代未聞の新東京歌謡プロレスは店の看板企画となりつつあった。
プロレス界では新しい解釈も産まれていた。
今や両国国技館で興行を開催するDDTの高木三四郎大社長やDDT内ブランドとして発足していたマッスルの主宰、マッスル坂井氏などから当時のSNS主流であるMIXIに足跡があり、オレがメッセージしてイベントの内容を説明したりした。(ネーミングに興味を示したようだが、内容を知るとなんの返信もなかった)
特にマッスルは演劇的手法によるプロレスで話題になっていた。
「プロレスの向こう側」というマッスルのキャッチは新東京歌謡プロレスにも通じると感じていた。

もっと大きなイベントにしたい、という野望を抱いて懸命になった。
それには参加するミュージシャンがプロレスを知らなければならないと当時は感じて店で猪木vsカールゴッチのビデオを見せたりした。
内容について色々議論したりもしたが、結局プロレスに興味を持つミュージシャンがいなかった。
なら参加しなきゃいいのに言われるがままに参加してるヤツもいた。
最悪だったのはタッグマッチは3本勝負だったが当日、入場して、リングアナのルール説明で初めて「あ、3本勝負なんだ」とニヤニヤと締まりのないクソな顔して発言した最早ステージに対する姿勢すら間違ってるヤツもいた。
なんとか自分の試合で何か気付いて欲しかったが観に来もしない。
オレだって正解を出している訳じゃないが、「自分ならこうするな」という考える人が少なかった。

試合はなるべく分かりやすくしようと頑張った。
アントニオ猪木「風車の理論」よろしく相手のチカラを引き出して勝つという事に気を使った。
「この曲やったら多分あの曲やってくるな、そしたらこの曲やろう、したらあの曲が来る」なんて勝手に組み立ててその通り進む場合もあったし道が外れればその都度アドリブで変えた。
使いすぎて負けたりもした。(あまり持ち上げると弱く見えるようだ)

頑張ってみたが、結局、店は閉店の方向に向かって行く流れを変える事は出来なかった。

つづく。



5

“変身忍者”と呼ばれてC  音楽…他

Bのつづき

ボクリーは2006年5月に閉店している。
G-MOST奪取から開けて2005年は1年中入り浸っていた。
他所でも勿論ライブしていたし、4月には文京区役所のバイトを始めるが多分3日に2日は居た。
自分のライブだったり遊びに来たり。
荻窪に住んでいたから帰りの心配をしなくて良かった。
夜中の2時くらいまで居てLEEさんと2人になる事も多々あって大体「帰れ」とお開きになる。

よく「お前は漫画が武器だ」と言われた。
漫画を利用しろ、と。
漫画家志望だった事を明かした訳だが、当時は漫画家を挫折した事を隠していた。
隠していたというか、ステージでは。
アピアのチラシとかにはゴングとか週プロに投稿していたネタを入れたりしていたが、自分の歌に直接的に盛り込むという事はしてなかったし、MCで話すような事も皆無だった。
必要ないと思っていた。

そこからこのブログの最後に載せてきた画像のフリーペーパーをLEEさん主導で発行する事になる。
「オレの話を描いたら良いよ」
夜中まで色んなエピソードなんか聞いてオレが漫画にまとめる。
オレはあまり喋らないがLEEさんはどっちかと言えばお喋りで、バランスが良かったかも知れない。

ボクリーにはDJブースがあり、オレには色んな事をやらせてくれたが、ブースにも入れて貰い「DJハイエナ」という名前を頂戴した。(ボクリーでは最終的に、豪姫や北海源五郎、GOGONINJAなど、自分で考えたの含めて6つくらい使い分けていた)
しかし、ただCDを流していただけなのだが、ブースもステージなんだという事に立って初めて理解して曲を流すことが怖くなり直ぐ止めた。
その頃に間寛平のトリビュート?みたいなアルバムから…殺害塩化ビニールのあの人、プロレスもやったバカ社長、クレイジーSKB。バンド名が出てこないが「止まったら死ぬんじゃい」を連呼している曲を流して、「あれだなー、さっきみたいな繰り返すようなとか面白いんじゃないか?」みたいな話をされて、それと「漫画を利用しろ」を合体させて作ったのが「まんが道」だった。
まんが道で流用しているあすなろ日記の「なろうなろう」を連呼するこの曲は代表曲となった。
自分の漫画家志望を曲で晒した訳で、更に吹っ切れた。

更にオレは「漫画を利用しろ」を実行した。
どうせなら漫画をステージに持ち込もうと今もやっている紙芝居の原型みたいな事を始めた。
そこには「フォークダンスDE成子坂」の影響もあるが、たけしから鉄拳に続いた「こんな●●は嫌だ」みたいのもやってたから鉄拳も多少影響あるのか。(白塗りはまだしてなかったが)
曲に合わせて絵を掲げるという事を思い付き、最初に作ったのが「劇画オバQ」だった。
最初はまだパラパラ漫画みたいな演出ではなく、ただ1枚掲げるだけだった。

今の変身忍者の原型は産みの親の箱で少しづつというよりはつんのめり気味に突っ走って成長していた。

そして8月、もうひとつのベルト「新東京歌謡プロレス」が立ち上がるのだった。

つづく

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4

“変身忍者”と呼ばれてB  音楽…他

Aの続き。

その2004年の12月にそれまで月2回催された「街角オープンスタジオ」のチャンピオンを集結させてグランドチャンピオン大会が行われた。
名称は「G-MOST」(グランド街角オープンスタジオの略)

オレはまだ新入りみたいなもんだったので経緯は分からないが、ちょっとしたスポンサーからベルトが贈呈されたようだった。ベルトには「街角」の文字が。(後々G-MOSTが良かったな〜と反省されていた)
「やっぱり、お前〜ベルトだろ?」
確かに、流石。一気に欲しくなった。
オレは2回チャンピオンになっていたのでシード枠で出場。
レギュラーのミュージシャンが「誰が獲る?」という話をしていた時、オレはカウンターで知らない顔をしていた。
「案外、アイツかも」
オレをチラチラ見ていた。
確かに意気込みはあったが、狙って獲れるなら今頃ボートレースで生活してるさ。

1回戦で勝ち抜いた人達にオレも混ざって2回戦に突入。
まずは“少年Radio”と名付けられた高瀬くん(下の名前、ひろみつだったよな…)が断トツで抜けて決勝進出。
次に3人が同票。そこにオレも混じっていた。
この店は同票の場合、ジャンケンと決まっていた。
あまり何も考えずにグーを出した(と、記憶している)。
勝ち。
思わぬ決勝進出を頂く。

インターバル中、選曲でかなり悩んだ。
当時、代表曲と言えるのは「三角木馬に乗るダルマ」か「金魚のフン」かってくらいで、1回戦で三角木馬に乗るダルマを歌っている。
知ってる人は誰もが佐藤豪は勢いだけでガーッとやって来るに違いない。と、思ってるに違いないとオレは思っていた。
選んだのは「中学生日記」だった。

Aで書いたが当時、アピアの店長だったALONEの井上さんに「お前のイメージと違う曲を作ったら?」と言われていた。
「違うというのは180℃違うとかそういう事ですか?」
「いや、別次元」
別次元とは、これまた掴み用の無い例え。
その時に色々作った中で残っているのが「ロイヤルミルクティー」と中学生日記だった。

恐らくはボクリーでは初披露、もしくは馴染みが無い曲だったハズ。
高瀬くんが爽やかな路線だったのも影響があったと思うが意表を突いた選曲でグランドチャンピオンになったのは間違いなかったと思う。

その後、4ヶ月毎に行われたグランドチャンピオン大会には決勝だけ出場して、店が無くなるまで4回(3回だったか?最近記憶がなくなってきて…嫌ね)防衛した。
決勝だけ出るのは辛かった。
皆さん1回戦からノリノリに乗ってくるのだから。
だからオレは勝手に「過去に大会で使った曲は使わない」事を自分に命じた。
そこから「劇画オバQ」「刈り込みマシーン」などが生まれた。
常に、関わった人達の思いを勝手にベルトに乗せてきた。
だから、未だに冗談でもベルトの事にチャチャ入れられると嫌な気分になる。
そんな簡単な事じゃないんだよ。
今、復活して開催されたとしても、誰にも巻かせはしない。

その年末から、オレの名前がちょっと拡がった感触はあった。
そして、「出る杭は打たれる」という経験もした。
その辺りはまーあまり書きませんが、色々嫌みを言われたりもした。

だがしかし、打たれると同時にオレは「荻窪BOXINGLEE'CAFEの絶対的エースである」という自覚を持ち始めた。

つづく。

↓3号。
なんと「よつの葉」のゆりちゃんが1号と4号を持ってるらしい(笑)

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5

“変身忍者”と呼ばれてA  音楽…他

2001年11月から渋谷にあったアピアで歌い始めた。
まだネットもやってない時代で今で言うガラケーを駆使して携帯電話専用のホームページを作る程度。
豆腐屋の社員として販売の仕事をしていたオレは拘束時間が長く、月1でライブするのが精一杯だった。
しかも辞めたくても辞められない状態が長く続いていた。

池袋ショッピングパークの中に支店があった訳だが2004年にショッピングパーク内を全面改装をするから各店舗も改装せねばならず、店長は降りるしオレは辞表出してるし改装費もかかるし、という感じで支店が無くなりようやくオレも自由になれた。

失業保険で暮らしながらここら辺りでパソコンを導入して本格的な活動を始めた。
シラフさんのブログにやたらと荻窪BOXINGLEE'S CAFE(以下、ボクリー)の名前が載っていて、オープンマイクがあると知る。
オープンマイクについては以前何処かで書いたが、当時はまだ「飛び入りライブ」みたいな感じだった。
LEEさん曰く、ニューヨークに行った時に本場のオープンマイクを見て、弾き語り版にアレンジして導入したようでオープンマイクという名前の発祥の地はボクリーだと思っている。
豆腐屋を辞めてその手のオープンマイクに片っ端から出た。
そのひとつがボクリーの「街角オープンスタジオ」だった。
最初は仕事帰りに客で店に入った。
当時は後々お世話になるアニキ的な存在であるシュガーかつみさんが司会をしていた。
ふらっと来る客が余程珍しかったらしく、かつみさんに何回もいじられる。
街角オープンスタジオは投票制でチャンピオンを決めるというのが面白いと思い次から出てみようと帰ろうとしたらLEEさんから「どこから来たの?荻窪?ならもうちょっと居なよ」と誘われたので残ってかつみさんとカウンターで話していた。
幾分夜が更けていい時間に「オーディションやるから歌ってみろよ」というので確か「金魚のフン」を歌った。
「合格〜」と言われたが何が合格かも分からなかった。
普通のミュージシャンじゃ嫌がってやらないで帰るのではないか?
当時からオレは受け身が上手かったんだな。

段々と通うようになり、通常ライブにも出して貰えるようになった。
ボクリーは出演者が少なく、その分「毎週第2月曜日は●●」とか企画名が入っていて、1人「オーガナイザー」としてレギュラーが居て、他は出演者を回していくような形だった。
今でも画期的だと思う。

色んな日に出さして貰い、オレはその都度企画タイトルを汲んだ内容にしたりまだ少なかった楽曲からアレコレ工夫していた。
それをLEEさんは見てくれているようだった。
そしてステージ上の事を色々言われた。
衣装の事でアドバイスも…アドバイスというか「こうしたら?」みたいな直接的なやや強引な言い回しなんで、それが嫌な人は残れなかったと思う。
「見栄を張れ見栄を」とか言われたな〜。

アピアでも燻っていて、今はALONEの店主が当時アピアの店長で色んなアドバイスを受けたがどうもオレには理解出来なかった。
が、LEEさんの言葉はスッと入ってきた。
当時の彼女が言った。
「言ってる事は同じなんだよ?」
恐らくは音楽の人であるかないかの違いというか、オレは漫画家志望から来たのでミュージシャンとしてアドバイスされるとピンと来なかったんだな。

基本、アドバイスは自分で納得行く事なら取り入れる。
30歳から始めたという焦りもあった。
漫画家志望の頃は「20代で成功しなかったら終わり」という頭があった。
そのまま、歌で10年やってダメならダメだと決めていたしボクリーに来たのは33歳、もうなんでもかんでも取り入れては自分なりに昇華して行った。

LEEさんはレギュラーになったミュージシャンに名前を付けていた。
たけし軍団みたいだと誰か言っていたような気がするが、オレはちょっと違う目でみていた。
オープンマイク出始めて暫くして「お前は“変身忍者”だ」と言われた。
「なんでですか?」
「いや、なんとなく」
そういう会話をした気がする。
「仮面みたいなものだから、売れたら外せば良い」
なるほど。
オレはプロレスのキャッチ?ニックネーム?そういう捉え方をした。

“超獣”ブルーザーブロディ
“人間風車”ビルロビンソン
“変身忍者”佐藤豪

よくオレがメイクしている時に「変身してますね」と言われるが実は間違い。
オレの内面から名付けて貰ったと思ってる。

あるライブで「ちょっとこれかけて歌ってみたら?」とサングラスを渡された。

「なんでですか?」
「なんとなく」
いつも会話はこんな感じだった。
サングラスをかけて歌い始めたら突然視界が開けた。
上手く描写出来ないのだが、全てのパズルが合致したような気持ちよさがあり、途中で恐くなってサングラスを外したが、それはキッカケであり、その後も内面から何か変わった感覚は続いた。今でも。

「変身忍者がホントに変身したよ!」
かつみさんが言った。
かつみさんもこの“変身忍者”の意味を分かっているようだった。

つづく。
↓これは当時LEEさんと協同で作っていたパンフレット。
1号が無いので2号を。

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