「写真は、それが撮られた前後を見えなくする」―Jeff Wall
このブログですでに何度かとりあげていますが、写真と絵画の瞬間と運動の描かれ方の問題で、馬のギャロップについての話があります。カルフォルニアの強い日差しによって可能になったマイブリッジの連続写真が写しだした馬のギャロップとは、絵画で描かれていた(たとえばジェリコー)の馬のギャロップとは異なるものでした。ここでは絵画の描写の不正確さが示されたと言えますが、一方で写真によって捉えられたギャロップの瞬間は、走っている感覚が消失し完全に停止しているように感じ、見る者を戸惑わせました。それはまるで「ゼノンの逆説」(飛んでいる矢は止まっている )を体言化するようなものでした。
写真は運動の瞬間を捉えることはできるが、写真は運動という持続のなかの瞬間としては描くことができないのではないか?絵画とは、人間の視覚と記憶における認識の性質を使い、またシンボルなどの図式に置き換えるさまざまなプロセスも加わることによって瞬間的なシーンを固定化する。写真はそのような「図式と修正」などのプロセスがないまま瞬間を瞬間として提示するものなので、写真は現実的な認識というよりも幻影的な時間を表象しているように感じるのだと思います。
しかし、その写真による瞬間の表象の性質には可塑性がないものなのか?もしくはこの凍りついくような効果は、芸術的にいかにして有効活用ができるのだろうか?
写真家であれば誰しもがそのことをいろいろと考えるはずです。もちろんそこではいろいろな作家によって、いろいろなアプローチがなされてきたわけですが、今回は絵画との関係によって、写真のこの性質(抵抗感)に可塑性を模索している3人の作品について考えてみます。
John Baldessari

John Baldessari Throwing Three Balls in the Air to Get a Straight Line (Best of Thirty-Six Attempts) 1973

Throwing four balls in the air to get a square ( best of 36 tries ) 1974
上の作品は、John Baldessariの初期作品の代表的なものです。ほぼ100年前に撮られたマイブリッジの馬のギャロップ同様、アメリカ西海岸の強い日差しのもとで撮られたであろうこの作品は、写真が持っている「ゼノンの逆説」のごとき性質を使うことによって独特の感覚を作り出しているように思えます。それらの写真はボールが空に向かって放り投げられる、放物線的な運動、つまり持続的な時間から切り離されて、ボールは落ちるようにも見えなければ、あがっていくようにも見えない、まさにUFOのように無重力的に浮かんでいるように見えるからです。
そして一つの手によって投げられた4つもしくは3つのボールが作り出している形態は、写真のフレーミングともあいまって決定された美しさを作り出しています。これがもし動いている感覚を持っていたらこれほど、ボールの位置関係に美しさを感じることはできなかったでしょう。写真の凍りついた感覚は、馬とは異なり、運動的な変化を見せないボールを扱うことによってさらに高まり、きわめて特殊な時間感覚を作り出しています。これは以後のBaldessariの仕事でも継続されていく可能性としてきわめて重要な作品だと思います。
また、雲ひとつない真っ青な空と、オレンジ色のボールが、奇妙な緊張関係を作り出すことによってこの作品はきわめて絵画的に見ることが可能ですが、そう考えてみると、これはポアリング(ドリッピング)的な重力や身体の利用方法と対応関係を持っていると言うことが可能だと思います。
Jeff Wall

Jeff Wall A Sudden Gust of Wind (after Hokusai) 1993.

Hokusai katsushika A Sudden Gust of Wind
Jeff Wallの『A Sudden Gust of Wind (after Hokusai)』は、彼の中でも代表作の一つにあげられる有名な作品です。葛飾北斎の絵を見てもらえればわかるとおり、これはWallなりのアレンジをくわえた北斎の作品の再現に他なりません。
この写真は、よく見れば明らかに不自然な要素がたぶんに含まれている。にもかかわらず、きわめて自然に突風が吹いた瞬間を捉えているような時間感覚を作り出していると感じられます。もちろんここでも写真の凍りついた時間という感覚を完全にはけしていませんが、それと同じ時間感覚ではないはずです。
この頃映画ではヤン・デボン監督の『ツイスター』(1996)が、CGによって作り出される竜巻のリアルさを作り出し、劇場で見て度肝を抜かされましたが、Wallのこの作品も合成を駆使して作られたきわめて人工的な映像です。
それを示唆させるためにも、北斎が前景から中景にかけて、風にこらえる人物を配置することによって画面全体に風を感じさせるようにしていますが(ゆえに後景の雄大で穏やかな富士が際立つようになっている)、Wallの場合は、前景の木や書類や人物のポーズによって、また後景の煙によって風を演出していますが、中景の畑や川などの部分はまるで無関係性を指し示すかのように、風の影響がほとんど見られないようになっています。
また前景に生えている枯れた雑草はまったくブレることなく写っていますし、後景の煙以外も風の存在を感じられません。そのため風が本当に吹いているのかというのはきわめて怪しい感じになっている。
また、この写真が薄暗い曇の天候であるというのも大変示唆的だと思うのです。このように後景までしっかりとピントがあっている写真が、この濃い雲に覆われた天候の中で撮れるわけはない。これは北斎のオマージュであるともに、マイブリッジの写真に対する言及でもあると言ってもあながち間違いではないでしょう。
そういったいくつもの不自然さを孕みながらも、この映像は極めて自然な情景として、見事に持続のなかの瞬間を感じさせるのです。この作品が写真的なリアリズム(写真的不自然さ)と、絵画的なリアリズムが非常に奇跡的に拮抗している作品だと思います。これは単に構図が北斎のシュミレーションになっているからだからとは言えません。ですから、見る者はこの一見不自然さを感じない写真を見ていくことによって、運動とはいかなるものか再認していきながらこの作品を見ていくことになります。
そして、ここで描かれる運動の可能性とは、逆説的ですが、木、葉や書類や人物などのそれぞれの身振りが、高速なシャッタースピードで捉えられる写真的な静止感(動いているものを止めている)というよりも、ポーズとしてあらゆる運動を止めている(止まっているものを動くように見せている)という感覚を強く出しているからではないだろうかと思うのです。
つまり動きの瞬間を捉えようとすると持続的な時間が消えてしまうので、一つ一つの動きを止めて(るかのように)撮影し、コラージュ的に構成しなおすことによって初めてこの作品は運動の瞬間を捉えるのではなく、描き出すことを可能にしている。もちろんこの作品で捉えられている過剰なディティールが加わらなければそこにはリアリティは生まれないわけですが、そういったディティールの運動は、あくまで絵画的な認識(離れてみたときの全体像)に隷属させることに徹底しています。
ですから、この『A Sudden Gust of Wind (after Hokusai)』における人間の身振りや、服とスカーフのゆれと、木の葉や紙や帽子、煙の流れ、川の流れというそれぞれまったく違う速度を持っているはずの運動ですが、反・相対性理論的な均質な時間と空間に無理やり統合されている。これはシャッタースピードという一つの瞬間に統合しえぬ時間が、瞬間的なイメージとして強力に統合され、可視化されている。そういう意味ではこのWallの作品は、現実の時間の流れとはまったく異質な時間を作り出しているわけですが、それが自然に見えてしまうことの不思議さというのも、視覚のメカニズムとして大変興味深いように思えます。
Jo Ann Callis

THE DISH TRICK 1985
Jo Ann Callisというロザンセルス出身の女性写真家は、上の二人の作家と比べると知名度の低い作家です。彼女は失敗作が多いし、かなりまずい展開をしているところもあるので、けして総合的に評価できる作家ではありません。しかし、それにしてもいくつかの秀逸な作品を作っているのも事実です。この『THE DISH TRICK』は、その中で一番傑作と思える作品ではないかと思います。
写真における運動とはブレを起こすことによって描けばいいではないか、その例です、と言いたいわけではありません。
この作品がタイトルでも示されるとおり(このタイトルが成功しているのかは別としても)、テーブルクロスが引っ張られる運動の瞬間を撮っただけとはいえない写真です。
この写真が作品として成っているのは、時間的なものと力学的なものの関係における“取り違え”と“予測”の問題が作り出されているからです。ですからこの写真には明らかに意図的な視覚的フィクション(彼女はそれをトリックと呼んでいる)が内在していると僕は考えているわけです。
まずはじめに“取り違え”の問題について考えてみましょう。ここでまず目に付くのは、ブレている部分とブレていない部分の関係だと思います。
テーブルクロスが引っ張られ、今まさにテーブルの上のコップと皿がひっくり返ろうとしていますが、画面一番手前のコップと皿は、まだブレることなくしっかりとピントがあうほどに静止の状態を保っています。
これはなぜかと考えると、皿の周りの布の様子を見て推察すれば、手によって引っ張られた震動なり力が、まだその場所にまで届いていないからだとわかります。
ですが、僕たちがこの写真を見るときには、“まだ”という時間的な問題を、力学的な関係として取り違えてしまうはずです。それはどういうことかというと、手前のコップと皿は、まるで引っ張られる布を押さえているように、つまりまるでテーブルクロスを留めている釘やピン止め的な役割を担っているかのような感覚を持っているのです。
ですから、ここで起こっていることとは、実際は時間的であるはずの原因(遅延)を、あるはずもない力学的な関係として視覚的に取り違えて認識してしまうということです。
ただ、このあるはずのない力学的なフィクションが作り出されるのは、ピントの効果が大きいですがそれだけではありません。
この作家がその感覚に対して非常に自覚的だとわかるのはこの一番手前のコップと皿、あとイスの置かれている状況です。
イスの役割を説明するためには、まずコップの役割を説明しなければいけません。ですからまずコップと皿について考えてみましょう。ここで考えるべき問題とは“予測”ということになると思います。“予測”とはつまりこの写真に撮られた瞬間の次に起こることについて、見る者がどのように感じ取るのか、考えるのかということです。
今まさにテーブルクロスが手で奥に引っ張られることによって、卓上の上は、すべてがひっくり返されようとしています。しかし一番手前の皿とコップは、この後どのようになるでしょうか?もちろんこの食器も後の食器同様に静止を保てずひっくり返るはずです。
しかし、そう考えてみると、この皿とコップはきわめて微妙な位置に置かれていることに気がつくはずです。ここでの皿は、半ばテーブルからはみだして置かれている。つまり、テーブルクロスは置くへと引っ張られているのに対して、このコップと皿は手前へと落ちていくのではないかと感じさせる危うい位置に置かれています。
そう強く感じさせるのは、実は置かれている位置だけでは不十分なのです。この状況はアングルとフレーミングによって強調させられて、見る者ににその“予測”を強く促すことに成功しているのです。
もしカメラがこのテーブルと同じ高さもしくはこのアングルの傾きを持たずたとえば真上から撮られていたらこの効果はまず出なかったであろうと言えるのです。
上の絵は、E.H.ゴンブリッチの『イメージと目』という本の中で取り上げられている“中世時代の図式的な様式で描いたユーモラスな現代の線画”です。これがなぜユーモラスかというと、テーブルの上の空間を描くために中世の人が編み出した空間の描き方の図式を、現代的な目線としてリテラルに捉えると“傾き”として見え、テーブルの上の食器はすべて滑り落ちてしまうと茶化している絵だからです。
一方『THE DISH TRICK』でも同じような手法が利用されている。それは、レンズが作り出す過度な遠近感とカメラの不安定なアングルが、テーブルクロスを引っ張り食器が落ちるという明らかな状況と共振することで、対象であるテーブルの傾きという錯覚を作り出し、見る者に強い印象を与えているからです。奥行きを傾きとして取り違えるこの錯覚は、少なからずテーブルクロスの襞も効果的に関わっています。さらにその傾きにたいする補完的な役割として、イスの存在が大きな意味を持っているのです。
テーブルクロスは奥へと引っ張られているにもかかわらずアングルやフレーミングのやり方によって、テーブルの傾きとともに手前に滑り落ちてくるような状況を助長しているのは、それを受け止めるかのように機能している手前2つのイスの存在が重要であります。また、写っている3つのイスは奥行きと床の地平を不安定なものにするために大変効果的に機能していることも言っておかなければなりません。
つまり、手前のコップと皿が、後ろに引っ張られるのか、もしくは手前に落ちるのか、その予測において力のレベルを拮抗させるのは、けして自然に作られているものではなく作者の極めて意図的に作り出されたものであり、ゆえにこの写真は、凍りついた時間という写真の運動と瞬間を捉える際の写真の可能性にたして大きな可塑性を見出している言うことができます。
ここでは写真に対して一つの決定的な答えを用意しているというわけではありません。しかし、いまだあまり写真の可能性としては問われていないような感覚ですので、書いてみたいと思いました。
写真と時間の問題は非常に広大な地平を持っていますので、局所的にではありますが長いスパンで考えていきたいと思っています。