くらもちふさこの「100mのスナップ」は79年の短編だ。ここでは彼女の形式的関心が率直にあらわれている。物語は100mハードル選手水野ひかりとカメラマン伊勢雅実が主人公。
水野は伊勢の弟(伊勢克実)が発した「走ると風景が飛ぶ」という言葉にこだわり続ける。この作品では、ハードル競技が漫画の形式的な問題メタファーとなっている。
コマとコマの間をいかに滑らかにつなぐか。その滑らかなコマとコマの接続が行われるとき、一つのエモーション「走ると風景が飛ぶ」が生まれる。
こうも言える、コマの飛ぶ感覚が走る感覚を作り出すと。これがハードル競技のジャンプの技術とかけあわされている。
『100mのスナップ』で「走ると風景が飛ぶ」いうことをくらもちは「めまい」と言っているところが重要だ。物語の目的が達成される瞬間に現れる「めまい」を漫画でいかに作り出すのか。その身体的な感覚をくらもちは初期から重要な問題としてとらえていた。
ただここでは、滑らかな移動だけが重要となっているわけではない。それはカメラマンである伊勢の存在である。写真は一瞬を固定し凝固させる。そこに運動性がいかに導きだされるのか。これは一枚の絵、コマの自律性の問題が関わっている。水野と伊勢の対話はこの形式的問題と統合の物語だ。
この時点でその感覚はまだ極めて素朴なものだが、その自覚的な意識が、「おばけたんご」までいくと一つの結実をみることができる。また「α」もまた短編の連続性がコマから作品へと拡張されているが同じ問題を扱っている。
くらもちが重要なのは走る感覚と風景が飛ぶ感覚だったが、最近の絵柄の変化は疾走感を抑えている。ただ、離れたものが結ばれる感覚への関心は変わらず保持されている。近作は、明らかに以前のような滑らかさへの抵抗を指し示すようになっているが、これは、おそらく高野文子の存在も鍵となっているはずだ。
くらもちがよく描く最愛の者の死や離別は、逆説的に場所を選ばず、影のように常についてくる他者の存在だった。それによって走るという移動の問題が、彼女の中では空間的な意味での距離の問題とは切り離した。疾走には必ず目的(欲望)がいる。ここでは間接的(二重化)に、あるいは時間の問題として距離が関係している。
※最近、twitterの投稿を、少し編集してブログの記事にしているが、どちらにとってもまずいのかもしれない。普通に考えばまぁそうですね。ただ、これから忙しくて書けなくなるしネタもなくなるので、この試みはもう少し続けてみようと思います。