今回は、80年代以降のアニメを、美術の時代/様式的な区分に置き換えて考えてみようと思います。美術におけるルネサンスにあたる部分を、日本のアニメで考えるとして、古典を総合しアニメを一つの完成形として提示した宮崎、押井、大友に設定してみようと思います。
そう考えてみると、パロディによる複雑な文脈解析と歪曲化を作り出している「新世紀エヴァンゲリオン」、「少女革命ウテナ」の技術的な洗練は、マニエリスムもしくはバロックに当てはまると言っても決して間違いではないでしょう。
では最近のアニメは、どのような時代/様式に当てはまるのかと考えると、ロココの時代にあたるのではないか。ロココ絵画特有のエロティシズムとセンチメンタリズムは、今のアニメと共通するところがあるし、「新世紀エヴァンゲリオン」や「少女革命ウテナ」の頃に比べると、今のアニメは光のコントラストを裂けパステルカラー的な色彩が多用されている。
さて、ルネサンス/マニエリスム/バロックと、ロココ絵画の大きな違いは、実は作品が受容される環境の変化とも関係します。代表的なロココ絵画は、一部の貴族や王族に受容されることを目的とし、宗教画でも王の権力を誇示するためのものでもなかった。ロココ芸術には室内絵画としての徹底した割り切りがあります。ですからルネサンス/バロックとは権力と芸術の関係に大きな違いを持っています。こういった絵画の役割の変化によって、ロココ絵画は、物語的な構築力や情報量はそれ以前の絵画に比べて少なくなり、一方で官能的な部分の絵画的な洗練に発達が見られるようになったと言えます。ほとんどロココ絵画には啓蒙的なものも権力的な誇示も見当たらない。絵画がその役割を担っていないわけです。
これをアニメに置き換えてみましょう。アニメでは、美術のような権威/権力と芸術の関係の変化はないと思いますが、アニメの作り手もしくは受容層において一般的なアニメ作品の認識(もしくは役割)が変わりつつあると思えます。そのことは、劇場(アニメ)に象徴されると僕は考えています。アニメ作品が想定している発表形式と受容される形態の大きな違いが生まれてきた。
宮崎、押井、大友はもちろん、「新世紀エヴァンゲリオン」や「少女革命ウテナ」も劇場アニメに対する意識が組み込まれています。作品の世界観が劇場用として耐えうるかそうでないかは、作り手の意識に強く反映した。そのことは、「新世紀エヴァンゲリオン」や「少女革命ウテナ」の最初の放送は深夜枠の作品ではなかったということも関係します。
しかし、最近批評的に注目されるアニメのほとんどは基本的に劇場アニメという形式には関心がないように見えます。それよりもDVDやYouTube、ニコ動などのメディアの方が強くあるように見えます。また、時間枠も初めから深夜枠ですから、受容層の想定もより小さい範囲になっています。このような変化によってアニメの技術的な洗練の志向も変わってきているように思います。