四谷アート・ステュディウムで行われている岡崎乾二郎対談シリーズ――2で、11月17日に斎藤環との講座が、行われるそうです。その講座のタイトルは「(私ではなく)形骸が考えさせる」でした。講座の概要を知っているわけでもなく、ただタイトルから勝手にですが、「“勝間和代ブーム”のナゼ?」という文章を連想しました。「“勝間和代ブーム”のナゼ?」とは、斉藤環が勝間和代と、そのブームに対して分析を行っている文章です。
なぜ「(私ではなく)形骸が考えさせる」というタイトルからこの文章が連想されたかというと、ここでは「自己啓発」と「社会変革」の関係を取り扱いっているからです。勝間自身の意識とは別にしたとしても、彼女の著作は読者に対する「自己啓発」として圧倒的に読まれている。その勝間和代の啓蒙書にはいったいどのような問題が孕んでいるか。精神分析医である斎藤環の視点から分析されています。そこで斎藤は、“私は経験的に確信しているが、「インセンティブ」としての「自己啓発」と「社会変革」とは、ふつうはまず両立しない。”と、書いています。
さて話は少し飛びますが、昨日「CREAM ヨコハマ国際映像祭2009」でスティーブ・マックイーン監督の『ハンガー』を観てきました。ここでも勝間和代ブームとベクトルは真逆ですが「自己啓発」の美学化としてパラレルな関係をみてとれた気がしました。
『ハンガー』は非常にイギリスとIRAの軋轢という政治的な主題を扱っています。マックイーンはこの映画では基本的には中立な姿勢を貫き、本人も語っているように「ピュアな人間ドラマとして観てほしい。扇動したり、主義主張を押し付ける気はない。ただ観て感じてほしい」となっています。過酷で不条理な状況が映像化されながらも、映画としては脱政治化を成功していた。しかし、政治的な主題を脱政治化しているからといって、もちろん映画自体の政治性が消えているわけではありません。
この映画では、主人公であるIRAのボビー・サンズをキリストになぞらえて66日間のハンガーストライキは、痛ましくもすごく美しい映像になっています。
サンズのなかではすでに「社会変革」の目的は失われており、社会的な意義を彼の中ではほとんど失っている状態でのハンガーストライキでした。ですからこの映画自体の後半になるにつれて、刑務所全体の状況は描かれなくなり、サンズのことだけに集中していくことになります。つまり、「社会を変える」(少なくともその問題提議)目的は後退し、「自分を変える」こと自体の美学化に向かっていく。そこでは映像的にサンズをキリストになぞらえていることも助長して、画面の崇高さやミニマルな構成が宗教的な感覚が見えます。この意味でのサンズの神格化は、映像の完成度はともかく政治的にみていかがなものなのか。マックイーンが持っている美学的な問題は、美術において非常に親和性を持ちやすい(特に今)と思えるぶん、かなりまずいんじゃないの〜と感じました。少なくとも実際に起こり、政治的な緊張感を持っている主題を描く時にはこの問題は問われるんじゃないかと。
そして美術というものが、美術という小さいジャンルの枠内を超えた時(フェティシズムが単にキッチュという役割以上のものを担ったとき)、どのようなものとして機能するのかを考えさせられました。その働きはある意味でかなり政治的に見える。そう思いました。
※だいぶ粗い書き方をしているので、リンクを読まないと何のことだがさっぱりわからないと思いますのでぜひ読んでみて下さい。
「(私ではなく)形骸が考えさせる」
「“勝間和代ブーム”のナゼ?」
池田信夫blog part.2 「ルサンチマンの力」
「CREAM ヨコハマ国際映像祭2009」
S『ハンガー』
シネマトゥデイスティーヴ・マックィーン監督、話題集中のデビュー作『ハンガー』上映【第52回ロンドン映画祭】