ゆずのアルバム「1〜ONE]が少し前に発売になった。そのアルバムのジャケットやPVを村上隆がやっているのは、多くの人が知っているだろう。
僕は少し前に友達のアトリエで、村上隆のその作品が印刷されている紙袋を見て、ちょっと驚いた。
確かに村上は、作品自体よりも、彼の戦略的な部分が目立っているわけで、この作品を村上が作ったかどうかわからないといえばそうだろうが、これはひとつの村上のエポックメイキングかもしれないと思える作品だった。ただ、これ以降、大幅に変わるということも、すぐに何か大きな変化が現れるということもありえないだろう。
では、なぜ驚いたのか。それは村上が、カタストロフ的なものや、スペクタクル的なものや、キャラにしても人間ではない何かばかり描かれてきたのが、今回は一見普通に見える男の子をなんでもない感じで描いているからである。それは、彼がスーパーフラットという概念を提示し、一つのスペクタクルに執着していたはずの彼がそれに一つの限界を見たのではないだろうかと思えたのだ。
ではこれは一体どのようなことか。説明してみることにしよう。
この作品には男の子は一人しか描かれていない。横に「1」の形のキャラクターがいるが、これをゆずの二人を基にして描かれた男の子ではないことがわかる。つまりこの人間を描こうと考えたのは、作品における自律的な意図によってである。そして色彩と表情、フォルムから彼がまるで知的障害者のような印象を持つのである。というか、内面が欠落した人間のように思えるのである。しかし、彼の目にはいつも村上が使う手法によって誇張されている。
この男の子を描くことが一体なんでそんなに驚きであるのか。それは、この作品は全く過視的な作品ではなく、スパーフラットではないと言うことだ。
なぜなら、「1」を意味するために人差し指を上にさしているこの姿は、明らかにキリストなどの預言者や(まるで天上を指差した)ようなとても啓示的なポーズである。
また、村上がいままで描いてきたスペクタクル的なイメージは抑制され、この男の子の内面の中へともう一度取り込まれ見えないものとして収まったからである。これはまるで世界が一人の人間の内面として入り込んでいるような印象をみるものに持たせる。そして、男の子はまたひとつの世界に属している。それは小世界と大世界のようないれこ状の世界であり、この世界の表し方はまるで富沢ひとしの「ミルククロゼット」と一致する。
内面性が欠落したような表情を持つ男の子が、それとは矛盾した意味を与える形のポーズと目の表象。
それは今までの村上的なイメージ(スペクタクル)を見えないものとすることによって、その入り口を目の中にだけ見せることによって内面性を暗示することによって、今までの村上のイメージとは違うイメージの説得力を作り出していると言えるだろう。
今回の作品は村上のイメージの膨張から、内面なきスーパーフラットなキャラクターから一線を画すものとなっている。
これは、村上のひとつの限界から生まれた新しい可能性でもあり、また同時にオーソドックスな内面性を作ってしまった危険な行為でもある。
さて、この前書いた、オロツコ、タイマンス以降の現代美術のひとつの主流を雰囲気やイメージといったが、それをもう少し踏み込んで考えていかなければならない。
そうなるとそこには希薄な形式性の回帰と、美術におけるイメージという欲望のたがが外れた中現状の現われなのである。
その中で美術はどのように展開をなしていくかということ。
村上隆は現代美術のある抑制されたイメージの取り扱い方に対してラディカルな行為だったと言える。またそれはマシュー・バーニーも大きな貢献者だろう。この可能性を美術においても考えていかなければならないというのは確かかもしれない。
そのたがが外れたことをポジティブに捉えていくのであれば、連続と侵犯の大岩オスカールのアクロバットなイメージの飛躍を肯定的に捉えるべきかもしれない。しかし、あれだけでは続かない。現に彼自身ももう限界を感じているようで、この前のフジテレビギャラリーでは普通の絵に回帰してしまった。
その中で村上はあのような作品を作り出した。僕はとりあえずあの作品は成功していると考えている。
イメージに対する欲望、それはまるでMTVに見られるような様式のアーカイブだけではなかなか展開が難しい。いくら膨張していっても、過激化していってもそこには限界がある。
また、形式というのは、最初に引っ張ってくるのは簡単でも、それを展開させるのはそう簡単ではない、3,4年でマンネリ状態が訪れてしまう可能性大なのだ。形式のマンネリ化の速さは、今日かなり加速しているといえるだろう。
しかし、形式的なものがただイメージの氾濫に対する反省的なものだけでしかないのであればそれはあまり面白いものではない。また、ブランドのように簡単にとってつけたような形式はすぐにマンネリ化が訪れる、またワンアイデアを延々引き伸ばすのもどうかと思う。だからといってそこら辺をどんどんとゆるくして、色や塗り方、イメージがきれいなだけで、気にすべきところが何もなくなっていくというのは本当に恐ろしい。
それはデザイン的であるということでもなんでもなく、それは単に何の意志も持たない物である。
ひとついえるのはロバート・ライマンのころのような抑制されたイメージへ、現代美術のイメージのたがをもう一度締められることはまずない。
オロツコ、タイマンスの流れを確実に汲んでいるティルマンスが、どのような展示を見せてくれるか。オペラシティーでの展示は、そのようなことを考えるためにも必見なものだと考えている。