別にミシェル・ガン・エレファントのファンというわけではない。しかし、彼らのラストライブのCMをラジオで聞きながら、このコラムを書く事に決めた。
そう、彼らの写真集「フレンド」についてである。
この写真集は、佐内正史という写真家が撮っている。
佐内は、バンドを音のないメディアを使ってどのように表現するのか。という事について考察してみようと考えてみた。
写真には音がない。けれど、人間は不思議なもので「ない」という事によって「ある」という事を想起させる事がある。ないという事が逆に想像力を想起させると言えばわかりやすいか。
ここで話そうとしているのは、「ある」という事に対する「ない」であって、自律的な「ない」ということについてではない。
佐内はこの写真集でそれを使ってスムーズにストーリーテイリングしていることがわかる。
まず彼の構成の仕方を簡単に説明するとのだとしたら、ライブの映像と、彼らのライブ以外の風景を中心にして、彼らの身の回りの物(ラジオ、アンプ等)や風景を写真に差し込んだりしている。
この写真を見る人は、音が聞こえ「ない」中で彼らの汗、目、表情、ライブでの劇的な光、ブレ等によって頭の中で彼らの音楽を想起する。
ネガティブな形でしか知り得る事の出来ない彼らの音楽や空気(暗闇の中の劇的な光)と、あじけなく誰もが知っている何でもない風景(露光オーバーぎみの白っぽい光)を対比させる事によって、ロック好きにはたまらないある種の死生観が起ち現れている。
ライブ、もしくはライブ直後以外ではあまりバンドのメンバーをとっていない、がバンドのメンバーを撮る時は、複写(写真を写真で撮ること)の写真にするとか、あからさまだが憎いやり方と言う事もしている。
佐内正史は上手い写真家であると思う。他の写真集を見ていてもうまいと思える。彼の写真はウィリアム・エグルストンや、ウォルフガング・ティルマンスなどを意識させるものがある。
しかし、彼らとの写真集との大きな違う印象をうけるところがある。それは佐内の写真集全体を統御している持続の意識である。佐内の写真集は、何を撮っても佐内の物語の中に組み込まれる。だから、写真集が非常にまとまった物語のように感じられる。
が、ティルマンスの写真集は、モチーフ、アイデアによって作品の語り口が変わる。その為写真集を見ていると、佐内のようにどの写真も佐内でしかなく、何を撮っても変わらないという感じをあまり受けない。アイデアごとで写真の意識に切断が生まれ、ある種の幅をティルマンスは生んでいる。他者性の持ち込み方がティルマンスと佐内の大きな違いといえるかもしれない。
しかし、佐内的な傾向は、日本の写真家には多くある。それは非常に私小説的なものだろう。
けれど、何も新しいものが見えてこない決まりきった死生観の中の眼差しは、ある種の健全さを失い、自家中毒的な気持ち悪さを感じた。けれども、写真のストーリテイリングを考えていくと参考になるものもない訳ではないのが難しいところだ。