マクドナルドの椅子の堅さについて、前に東浩紀氏と大澤真幸氏の対談の概要を、書いた中で書きました。
あのコラムのタイトルが、「これは美術の無縁の話ではないかもしれない」と、恥ずかしいタイトルをつけてしまいました。
ですが、僕はそう思っているところが本当にある。けれど、どこがどう関係しそうなのかについてまるで説明してないので、少し自分なりの考え方を話してみようかなと思います。
「マクドナルドの椅子が堅い」という事を、東と大澤は、アーキテクチャー、もしくは、環境管理型権力の例として、話されていました。
それは学校を代表として、様々な社会性、倫理観などを教育していくものとして、規律訓練型権力というものが、法などの秩序として社会の基盤になっていたが、その効力が弱まりつつある。その中で、環境管理型権力へと社会的な機構の基盤を移行してきているのがここ最近顕著になってきたという話です。
まあ、この話をあまり突っ込んでしまうと僕自信あまりまとまりをつけて整理する事ができなくなってしまうので、とりあえずここらへんで止めておいて、マクドナルドの椅子の堅さに話を戻すとします。
そのマクドナルドの椅子の堅さは、観客を店内に長く居座らせる事なく、なんとなく席を立ってしまうという、人間の動物的な限界を利用すると書いてありました。
美術においても、その人間の「動物的」な部分ということに着目し始めている動向が、出てきていると考える事ができるのではないかと考えています。しかし、美術の文脈に置き換える時にこの「動物的」という言葉には、もしかしたら、問題があるのかもしれません。
視覚的な問題でいえば、「オプティカル」という要素が。最近再評価され始めているという事にあたると考えています。
このオプティカルについては、今月号の松井みどりさんのヴェネチィアビエンナーレについての文章で簡単に説明されているのでよかったら読んでみて下さい。
そのことについてよまなかったとしても、一、二年程前に騒がれたオップアートなるものを想像してくれたら何となく分かって頂けると思います。
ここで、オップとマクドナルドのしうの堅さについて考える時に、一番説明しやすいのは、椹木さんが、美手帖であげていた「ポケットモンスター」の話をだと思います。
これは記憶している人も多くおられるとも思います。ポケモンを見ていた子供たちの中で、てんかん症状を引き起こした子供が多くあらわれたという事件です。それはアニメの効果によって使われていた光の点滅がてんかんを引き起こす原因だったのです。
これについて椹木さんがどのような事を言っていたかをよく覚えていないので、もしかしたらこれは僕の意見なのかもしれないのですが、ここで重要なのは、子供がてんかん症状を引き起こしたのは、ポケモンの内容をちゃんと見ていようが、いまいが関係なく(つまり物語的なものとは全く関係がなく)、アニメの効果に使われた光の点滅によって引き起こされたと言う事です。
もちろんこの「ポケットモンスター」は事故なわけです。また、マクドナルドの椅子には、経営上においての確固とした目的
がある。美術においてこの問題は、それが事故としてでも、なにかの明確な目的を持ったものとしてでもなく、つくり出されていくと言う事になります。
しかし、ここで考えられるのは、それってはたして表現なの?という問題があるのかも知れません。もともとオップアートというのは、その網膜的な仕掛けとデザイン性を持たせる事によって作品が成立していた。そこには明らかに「空っぽさ」があり、それが作品としてインパクトを瞬時的ではあるが持っていたと袴田京太郎さんが話していました。
確かに、オップの考え方は、美術というよりもデザインの方面で影響力を持っていました。
しかし、現在のオップ的な作品は、必ずしもオップ的な表現だけで成立しているわけではありません。つまり空っぽにしているのではなく、ある文脈を持った中(意匠とも言えるかも知れません)で、オップ的なものを使っています。もしくは、カーステン・ヘラーのように、視覚だけではなく、他の要素も使ったりしていく大掛かりな装置をつくるなかで、妙な空っぽ感を持たせるという作家もいます。
ところで、マクドナルドの椅子は堅さと、まんま美術文脈に置き換えるとすれば、それはフランツ.ヴェストが挙げる事ができると思います。フランツ・ヴェストは、1947年生まれの作家であり、すでに評価は不動のものとしている作家ではあります。また彼の作品もいろいろな種類があると思えるので、私が挙げるような要素だけが彼の作品の全てではありません。
しかし、彼の作品は、ボディー・アート(ブルース・ナウマンを代表とする)からの発展として読む事もできるとような彫刻作品を作っています。
それがまさに、うんちのような、それともチョコバナナのような変な形をした家具とは言えないような椅子などを作っています。
たとえば、それに座る事にする、すると不安定な座面のため、そこでおかしな姿勢を取らざるえなくなる。しかもこんなへんてこな形である。しかも金属でできていたりするとまたそこに変な質感がうまれる、というかお尻が滑る。
デザインというのものは、常に、使われる目的や、身体的なものとの整合性が求められている(マクドナルドの椅子など)。しかし、それが全く違った目的で作られた時、そのものを使用する時には全く違う感覚がうまれる事になる。それをユーモアをもってつくり出している一人の作家がフランツ・ヴェトという事ができるでしょう。