この前に、松井さんのレクチャーについてのエッセーを書きましたが、その中で現代美術とファインアートを区分けした話を書きました。そのことについて、友人からコメントを頂いきました。
それは、「現代美術/ファインアート」の双方共にそれぞれの問題点=不満=違和感を感じると言うことでした。
この問題については、彼以外の人でも多くの人がそう思える事のような気がします。
それをかなり個人的な意見ですが、少し説明していこうかなと思います。
この二つの対立項は、この友人が指摘してくれた通り、黒沢清監督の映画「アカルイミライ」について書いた時の、映画が芸術か娯楽のどちらかしかない(「牢獄か、夢の中しかない」)という映画の現状と同じような状況になっていると言えると考えています。
絵画はちょっと前まで、現代美術=前衛になりえたわけです。それが、すでにファインアートに完全になってしまった、という考え方は、作家たちにとってどこか不満を持ってしまいます。もちろん、それについて考える必要が全ての人にあるというわけではない。ファインアートを自負して、現代的な作品を作れる人はそれで良いわけです。
私の教授である丸山さんが、前に「作家は、長嶋茂雄になるしかないのかもね。長嶋は、野球がどうなろうと、長嶋として社会に認知され続けるだろうからね」と言っていました。
私は、これを言われた時に「えっ」と思ってしまいました。けれど、これは、自分をアイディンティファイする時に、現代美術、もしくは、ファインアートによって成り立つのではなく、その人の実績が、もしくはその人の存在が、社会という公の共同体で現れること、を目指さなければいけない、ということだと最近気がつきました。
しかし、こう考え、結論を出すことは簡単です。なのに実現することはかなり難しい。
では、現在において絵画とは一体なんであるのか、私達は美術とどうつきあっていくべきなのか?それについて自分なりの意見をもう少し説明してみようと思います。
この前にICCに、展覧会を見に行ってきました。展覧会はサウンドインスタレーションの作品を集めた展示だったのですが、それはなかなか悪くない作品もある、僕にとっては、新鮮な展示でした。
しかし、ICCにおいてあるパソコンの中に収録されている、作家や哲学者のインタビュー集を見ることができ、それがとても印象的で、展覧会の印象を忘れてしまう程でした。
私がその中で見たのは、ジェフ・ウォール、スラヴォイ・ジジェクと、ジャン・ボードリアールの三人です。
インタビューの中で、ジェフ・ウォールは、いくつかの質問に答えています。
あなたにとって良い作家とは何ですか?
それは、良い作品を作る者であり、作り続けることのできる者です。私は、作品における普遍的な質を信じていると語っています。
ある学生が、私にこう言いました。私はいつも作品を作りたいわけではない。作品は作りたい気分の時だけ作ります。
それに対しジェフ・ウォールは、良い作家とは、いろいろな気分を利用して、いろいろな気分の作品を造り出すことができる。 だから彼らは作品を作り続けることができたのだ。
彼らの作品=人生は 豊かなものに感じることができるのは、それだからだよと言ったそうです。
そして、また、作家とは技術と道具によってその方向性は、定められると言っていました。
今あげた問題を証明するかのように、彼はそのインタビューのなかで、自分の写真の大きさについて、ライトボックスを使うことについて、写真史と自分の立場について、また自分の作品にたち現れている内容について、非常にわかりやすく説明していきます。
これだけを読む限りでは、当たり前の事を言っているように聞こえるかも知れません。しかし、ここで重要なのは、自分の表現に対して、危うい幻想を持たず、きちんと説明をしていく、研究していくという、責任を果たしています。
つまり、危うい絵画至上主義にありがちなに、絵画には何だかわかりえないもの、というような幻想をモチベーションにしていく事はけしてしない。
この幻想=歴史の連続性だけをモチベーションにすることは、絵画が疎外されやすい状況になっている中では、非常に簡単すぎる手段(オチ)に見え、とても危険な罠のような気がします。なぜなら、それは作家の自尊心を汚すことなく、自分のモチベーションを脅かしえぬものに持っていくことができるからです。
また、美術において「天然」は許されないのか?という問題もあります。しかし、「天然」は作家を続けられないという意見もあるし、そうじゃない例もあるので、私にはこの真相はわかりません。
しかし、「天然」はある種のステレオタイプと化し、現在において「例外」にはなれないのは確かだと思います。
そのような中で、やはりファインアートが、まさに美術館ではなく、博物館に収まる事になりかねないという危機意識を持たざるえないのです。
また、同時にこのインタビューを見た時に、もう1つの事を感じました。それは、ジジェクとボードリヤールのインタビューに比べ、ウォールのインタビューは、良い意味でも、悪い意味でも「優しい」ことを言っている、と感じたのです。
ジジェクは、メディア論的な質問に対して、精神分析的な読みから、ある意味でのメディアは存在しないと言い、幻想が人を動かしているし、人は幻層から抜け出すことがができないのようなことまでを言っています。
ボードリアールは、世界はシステム化され、善悪の問題等すでに終わってしまい、人は機能するかしないかもしくは、そのシステム事態から外れるかしかないという。
と、世界の残酷な現状について、大部分にして的確なコメントを述べているなと感じることができます。
それに対し、ウォールは作家としての見地から、ある種の無時間的な話をしていました。
もちろん、インテリであるウォールがこの二人の言っていることを知らないわけではない。けれど、その話を持ち込まないのは、すでに現在の美術は、都市のものではなくなってきていることを意味しているのかも知れません。
「都市の時間と田舎の時間」
田舎には、田舎の知恵がある。その知恵は、田舎という土地を育ていく、田舎の土地に生きていくためには絶対的な知恵である。つまり、田舎にも知者はいる。
世界は、全てが都市であるわけではない。また、田舎は必ず都市と関係を持っていると私は考えています。
「白い恋人」や「赤福」は、田舎限定であるがために、大きな成功をおさめている。それは、都市経済にも1つの影響力を与えるアイデアを作り出している。
そのためには、ある部分において謙虚であり続けないといけないと思います。黒沢清は、自分が映画を作っても、日本の映画界は何も変わらないじゃないかと言っていました。
もちろん、そうかも知れない、けれど黒沢の映画は僕が知る限りでは、多くのものに影響力を与えている(クラゲの毒は本当に効いている)。そのことを信じるしかないでしょう。
つまり、田舎者で終わってはいけないのだと、けれど、私が田舎に住んでいることは自覚しなければいけない。その上で田舎から都会を見なければいけない。
私も含め、私達の世代は、本当にいろいろなものを見ています。だから人生においも、生活においても様々なコードを知っている。
美術を考える上でも、なにになりたいか、どのようなものになりたいか、そのコードの選択が重要なもののように思えてきます。
しかし、現実は絶対にそのようなものではないのではないでしょうか。なにになりたいではなく、自分にはなにができるのか、なにがしたいのか。そのことに自覚的になれと、ジェフ・ウォールは、優しく問いかけてくれたような気が私はしました。