
Green River series
第3回目は、オラファー・エリアソン(Olafur Eliasson)の《Green River》(1998−2001)について書いてみようと思います。このプロジェクトは、川に水質汚染の恐れのない無害な緑色の染料を川に投入し、川を緑色に変えるものです。これは、ブレーメン/ドイツ(1998)、モス/ノルウェイ(1998)、ロサンジェルス/アメリカ(1999)、ストックホルム(2000)、東京/日本(2001)で行われました。この作品は写真作品であると限定できるものではありません。しかし、写真という媒体に落とし込むということに対してエリアソンはきわめて自覚的です。このことは、彼が継承しているといえるアース・ワークから継続されている問題です。
ギャラリーの外で、しかも都市部から離れ、周りに何もない巨大な空間がある場所などで作品を設置・制作した多くのアースワークは、作品やプロセスを記録するためにカメラをよく用いました。彼らは、そこに行かなければ見ることのできない、もしくはその制作現場を目撃した人しか作品を見ることができない性質のものを、作品として提示するために、作品を記録した写真をギャラリーで展示しました。これは一つの不可避的な手段であるとも言えるし、写真が作品と鑑賞者の媒介となることで新しい可能性を持っていたとも言えます。
Robert Smithson,GLUE POUR,1969
この記録写真のあり方とアースワークの作品の関係に対しては、作家各々で意見が分かれています。作品として提出される記録写真は作品の本質とは無関係のポルノグラフィーみたいなものだと言うことも可能でしょう。一方では、全肯定といえないまでも写真に積極的な視点を持つこともかのうでしょう。エリアソンの《Green River》も、現場と写真の間にある落差をどのように捉えるのかといった場合、同じ問題を引きずっているはずです。
Robert Smithson, Asphalt Rundown, 1969
彼は川を染料で緑に染め上げた時、まるで絵画のように感じたといっています。このことは、高い位置に設定し撮影された写真の方が実際に見たときよりもわかりやすく伝わるのではないでしょうか。この写真で固定されている染料の流れ方や色彩に対して、モーリス・ルイスの作品を思い出すことはけして難しくないでしょう。
けれども、一方でこの作品の核心というのは、ランドスケープをキャンバスに見立てた巨大な絵画=写真作品ということだけには収まりません。なぜならこの作品の制作は、エリアソンが一つのゲリラ的なイヴェントとして行われた作品であり、この作品は川のなかに流し込むという性格上、流れていってしまうものなので、流したあとは作者自身が設置場所をコントロールできるものではない。そして、この緑に染まった現象の目撃者も制限することができない。つまり設置というような場所性、もしくはそれに関係する作品のコンテクストの設定を作者自身が決定することは厳密な意味ではできません。
この作品はパフォーマンスとして、都市内部で行われ、犯罪ギリギリの駆け引きのなかで行われています。この緑の液体を目撃した人は、これが絵画的だとか、アースワークの流れを汲む作品などとは思わなかったはずです。この状況は明らかに異変であり(プランクトンや汚染物質など)、もしくは人為的なものとわかれば一つのテロ行為だと理解するように思えます。
その緊張感がエリアソンにとって重要だったはずです。このスペクタクルの暴力性は、彼の他の作品ではないような多義性を持っているように思えます。他の作品はエリアソンが人為的に作ったという安定したコンテクストを誰が見てもわかるように設定されている。つまり、アースワーク的な問題からは外れるようなアトラクション的なものとなっています。この作品は、彼の他の作品とは明らかに線引きされる作品です。他の作品は巨大なものやオプティカルな効果を引き起こしたとしても、目撃者/鑑賞者の立ち位置を揺らがせるものはなく、きわめて安定したスペクタクルになっています。
《Green River》は、目撃者の安心感を奪い、複数の可能性を想起させるように出来上がっている。
そのことを示すためにも、この作品を世界各地で行ったはずです。そこでは強制的に目撃者を作るという戦略的なスペクタクル性がもたれており、見る者が強制的に複数のコンテクストを構築させられるというポテンシャルを持っている。
ですから、彼はこの作品で警察との危険な駆け引きがあった。エリアソンは、初めてこのプロジェクトを行う時、車の中で染料を持っている自分が、まるで犯罪者やテロリストであるかのような感覚があったと言っています。このプロジェクトが、2001年で終えられていることも9.11の問題が関係しているかもしれません。
一方で、《Green River》の写真は、エリアソンが考えたような美術史的なコンテクストに接続し、正しく見せる機能を持っている。と同時に社会的なセキュリティや自然環境に対する批評性は間接的なものとして後退してしまう。
つまり生産行為と生産物のズレが写真という存在のなかに発生しています。
これは、最近ニュースでもとりあげられた篠山紀信の『20XX TOKYO』の撮影が公然わいせつの疑いに問われたことと関係します。
そもそも篠山の狙いというのは(僕がこの作品を評価するかしないかは別として)、グラビア、ヌード撮影が決まりきったロケーションで行われるのに対してのアンチテーゼ、もしくは差異を際立たせるものとして、都心、それも路上で撮影が行われている。ヌードの女性=作品と場と鑑賞者の関係を考えると、そのシステムは、ある種のアースワーク的な幻想と類似した性質(リチャード・ロングとか)を持っていると言えるかもしれません。ヌードやグラビアは、僕たちが普段行くことのない南国や、建物の中で撮影が行われたりする。これは単に裸を見ているのではなく、場と裸の関係が作り出すコンテクストを消費者が見ているということになります。
都市の路上での露出行為、性行為をしているアダルト関係の写真というのは、誰かに目撃される(させる)ことに対するスリル(露出狂的な欲望)が目的となっています。(僕はいくつかの写真しか見ていませんが)「20XX TOKYO」の写真はそうなっていません。少なくとも恥ずかしいとか見られるというような内面をモデルからも演出からも感じられない。むしろ見られるか否かという内面が消去し人形のようにモデルが扱われている。それはまるでターミネーターのようなSF的な世界観、もしくはデペズマン的な違和感を作り出そうとして機能しているように思える。
つまり篠山の興味は、あくまでその制作行為にあるのではなく、写真内部にある。その目的が、「20XX TOKYO」のロケーションを決定しているはずで、それが逆に公然わいせつとして問題になってしまった。
つまり変態的な問題設定にないがゆえに、逆に目撃者からわいせつ行為として問題となってしまったのかもしれません。なぜヌードの女性が、こんな由緒正しいところにいるんだと驚かれたのかもしれません。ここでは、作品自体が法に触れず、制作行為自体が法に触れるというケースでもあります。これはなかなか興味深い問題です。オラファ・エリアソンの可能性とは逆であるけれども同じことを示している。写真というのは、その撮影行為とそれによって生み出された写真の関係・存在が半ば乖離し、別のコンテクスト(社会的なコンテクストに限らず)に存在している。これはすぐに答えが出せるほど簡単な問題ではありませんが、写真/撮影を考えていく上では避けて通ることのできないことだと思います。
なぜなら、こういった規制は今後もあらゆるところで強化されていく。テレビのロケ撮影の映像は、今やモザイクだらけになってしまいました。また、リアルタイムで放映している時は大丈夫でも、もう一度その映像を流す場合、権利が失われ違うモザイクを入れなければいけないいう事態もある。つまり放映される状況によって同じ映像=作品のコンテクストが変わってしまうということです。

Green River, Moss, Norway, 1998

Green River, Bremen, Germany, 1998

Green River, Stockholm, Sweden, 2000

Green River, Tokyo, Japan, 2001