
Tea Plantation, Rwanda, 1991. Photo: Sebastião Salgado
東京都写真美術館で行われている「セバスチャン・サルガド アフリカ 〜生きとし生けるものの未来へ〜」の展覧会を見に行ってきました。セバスチャン・サルガド(Sebastião Salgado、1944〜)は、大変著名な写真家です。展覧会で作品を見るのは今回が初めてでした。いろいろと予想していましたが、予想していたとおり、それでも予想以上に圧倒される展覧会でした。
彼の作品は単に報道写真というわけではなく、作家主義的な意識が強く見え、審美的過ぎるとも言える写真です。説明的な記述や図式的な形式よりもとにかくサルガドは、写真が持っているインデックス(指標記号)の力(シュールレアリスム写真などにまったく引けを取らない)を最大限に利用する形で(プリントの技術、対象の選択、光の設計)作品の世界観を作り上げている(対象の肌理や写真の粒子、人体のサイズなどを見せる上で、写真のプリントサイズも非常に的確な気がしました)。
解説やタイトルなどのテキストを読まないのであれば、写真自体の説得力によって、対象となっているアフリカの現実や事実に対する客観的な印象が後退するほどです。ショッキングな状況を撮っていようといまいと写真の強度が変わらない。むしろ悲惨な状況がまるで人の存在のない風景のようにも感じ、何気ない光景を撮っているはずの写真が情動を激しく揺り動かすこともある。
すべてが乾いてしまった風景、やせ細った身体とカサカサに乾燥した皮膚、その中で唯一水分を感じるぎょろりとむき出しになった眼球。その眼球はこちらを強く見ており、その眼球のぬめりを見つめること。眼球はむしろ眼球としての意味よりも、写真全体の中での質感のコントラストとして強く見えてくるのですが、とはいえそれが眼球であること、そしてそのコントラストが何を意味するのかという想像力はけしてかき消すことはできない。この経験は今回の写真で強く印象に残ったことに一つです。
芸術として写真を捉えるとともすると作家が意識的に用いるインデックスは、フェティシズムやコンテクストの中で安定した役割を担ってしまいがちですが、サルガドの場合はインデックスは、作品によって関わるコンテクストの位相を変えている。もしくはイコン(類似記号)とインデックスの見え方の関係には複数の形態を持っていると思いました。あまりにも克明に写されているがゆえに考えざるおえないことと、粗い粒子によってかき消されようとしているがゆえに強く見ようとうながされること。そして静止しているからこそ見えてくる何か(たとえば、肖像写真としての肖像写真が、安息として特権的なイメージを帯びる)。観る側はたえず揺さぶられ、同時に何が記述されているのかを客観的によく見ようとする。
彼の写真を批判するのは簡単ですが、ここまで徹底されていると僕自身は説得されてしまいます。彼の写真を見て多くの人が倫理的な判断として躊躇を感じるでしょう。けれども、もし単なるドキュメント写真なら多くの報道写真というイメージのなかに埋没し、危機は記憶にとどめられることすらしない。ですからこの躊躇こそが、写真をよく見させ、状況を把握しようとし、思考が促されると思います。