一生のうちでいちばん大事なことは、職業の選択である。ところが、偶然がそれを左右するのだ。
習慣が、石工、兵士、屋根屋をつくる。「あれはすばらしい屋根屋だ」と人が言う。そして、兵隊の話をしながら、「やつらは全くばか者だ」と言う。ところが、他の人たちは反対に、「偉大なものは戦争だけだ。軍人でないやつは、ろくでなしだ」と言う。人は、子供の時にこれこれの職業がほめられ、それ以外のものはすべて軽蔑されるのをさんざん聞かされたために、それに引きずられて選択する。なぜなら、人は元来、徳を好み、愚をきらうものなので、それだからこそこれらの言葉がわれわれの心を動かすのだ。要するに、人がしくじるのは、適用に際してだけなのである。
習慣の力というものは実に偉大なものなので、自然がただ人間としてしか作らなかったものから、人々はあらゆる身分の人間を作り上げてきたのである。
なぜなら、ある地方はすっかり石工、他の地方はすっかり兵隊等々といったようなことがあるからである。もちろん自然はそんなに一様ではない。してみると、そうさせたのは習慣である。なぜなら習慣は自然を強制するからである。しかしまた、時として自然が習慣のうちに勝ち、善悪を問わずあらゆる習慣に反して、人間がその本能のうちにひきとどめることもある。
(パスカル『パンセ』前田陽一・由木康訳中央公論新社p71)
ここでパスカルが書いていることは、もっと拡張して捉えるべきことですが、自分の意識のなかでは現在最も重要な問題の一つだと感じています。
パスカルが書いている意味での「習慣」というのが現在では、近代から一回転して再び強くなっているのではないでしょうか。ともすると一つの文明や国家が持っている社会や認識における構造(つまり習慣)を相対化するために行われた構造主義も、今では半ばココにある「習慣」を強化するようなものとして利用される状態にあるのではないだろうか。多様である世界の中で、「習慣」化をより強制しそれをいかに利用し、打ち出していくかという時代になりつつある今(そうする必要性はよく理解できます)、「習慣」に打ち勝つもしくは抵抗する「知」もまた要請されるべきなのではないかということです。
今となっては恣意的な立ち位置でしかない美術が、もし現在も言説として意味を成すことができるとすれば、マイノリティ・リポートをいかに社会的に成立させていくかということです。
それは社会的な弱者(もしくは被害者)の意見を表明することではありません。パスカルが言うように善悪の問題でもない。スピルバーグもしくはディックの映画に登場するプリコグの予知する内容がそうであるように、その表明の内容は少数派であるということは関係なく導き出されるものです。ですから少数派であることの表明ではなく(つまりアイディンティティの問題ではなく)、少数派であることを理解しても、マジョリティの意見と同等の可能性(確率、いやここでは「関心」をひきつける量的な問題を抜かせば)を秘めているということを信として仕事を行っていくことです。作品(もしくは創造行為)が世界を裏返す可能性(近代以降の美術が核としてきたもの)を捨ててはならない。それが美術の倫理だといえるはずです。