
Candy Darling on her Deathbed, 1974
Peter Hujar(ピーター・ヒュージャー、1934−1987年)の作品の中で最も有名な写真は、アンディ・ウォーホルの『フレッシュ』(1968年)などに出演している伝説的なドラッククィーンであるキャンディ・ダーリングの死の間際の肖像写真《Candy Darling on her Deathbed 》です。彼が撮影する写真は、最初から最後まで非常に一貫した世界観を持っています。眠りと死の間、もしくは夢と死の間のような感覚が彼の写真からは強く感じます。
彼の作品は、ダイアン・アーバスが持っていたような対象への眼差しと、共通する感覚を持っています。けれども、彼の写真はアーバスの写真のような悪意やおぞましさから引き出されるような逆説的な美、もしくは寓話性や幻想性ではなく、歪んだ者が社会に存在すること、その儚さと美しさを捉えているように思えます。その現実(彼らの存在)が神話化するような感覚。
対象の神話化、もしくは夢のような感覚をHujarの写真からはなぜこうも強く感じるのでしょうか。それは、感覚の消失と感覚の抽出が、もしくは感覚のイマージュ化が関係しているのではないかと思うのです。
たとえば夢の中では当然痛みは感じません(感覚の消失)。殴られたというショックはあってもその時痛みは感じていない。そこで残る殴られたという感覚(そこでは単に視覚的なものではなくわずかに触覚的な感覚が残っている)はいったい何か。
もしくは、たとえば高いところから落ちる夢というのは異常なくらいにリアリティを持った感覚として湧き上がってくることはなにか。それは実際に落ちるという感覚とは異なりある感覚が抽出されている。
この感覚の消失と感覚の抽出が、夢の面白さの醍醐味だと僕は感じているのですが、実は写真もまたそのような部分を持っているのではないかと感じています。Hujarの作品の確信性は、まさにその部分です。
Hujarの写真の中では、ある類の感覚は消失し、また言語化されにくいきわめて微分的な感覚が抽出されている。掴もうにも掴めないような感覚のその小ささが、写真もしくは対象の存在を神話化させている。こぼれ落ちるという感覚自体が、写真のなかに定着しているのです。
それは、夢、もしくは夢の中の死、そしてまぎれもない現実の死が、一つのビジョンとして圧縮されていること、その認識が彼の多くの写真には存在しています。

Children at Refectory Table, Florence, 1958

Andy Warhol III, 1975

Night, Downtown, 1976

Girl in my hallway, 1978

Halloween DOA, 1979