先日青山にあるスパイラルガーデンで開催している
エマージング・ディレクターズ・アートフェア 「ULTRA002」を観に行ってきました。51名の若手ディレクターが作家を選び、小品ではありますが本当にたくさんの作品が展示されていました。その中では知っている作家も多く出品していましたが、知らない作家の作品も多くありました。
とりあえずアートフェアですから、展示としてどうだったかということは問えませんが、やはりいろいろな作品を見ることができたのでなかなか貴重な機会でした。状況を捉えるという意味で、このアートフェアがどれほど機能するのかはわかりませんが、このアートフェアに限らずここ最近の日本の状況を浅くですが見渡すと、一時期に圧倒的な影響力を持っていたローラ・オーエンス、ピーター・ドイク、杉戸洋などの作家たちの影響力が少し後退したような印象を受けるようになってきました。次のムーブメントに強くシフトしたような印象もないのですが、何に影響をうけていて、もしくはどこら辺の文脈を意識して作品を作っているのかわからない新しい傾向の作家が出てきていると感じています。広くいえば日本での日本人によるジャポニズム的な様式が展開されているような印象を受けました。それがどのようなことを意味し、どのような可能性を担っていくのかはまだ答えを出せるような状況ではありませんが、この状況を整理するためにも少し考えてみたいことがあります。
※もちろん、このアートフェアにはそういう括りにはまったく関係のない作家もたくさん出ています。とりあえず僕が知らない感じの作家が出てきていることに反応してここでは書いていることを前提とします。
そのような傾向の作家は、松井冬子、松井えり菜、小谷元彦、鴻池朋子などの作品が持っている美意識と共鳴するもしくはその延長線上にある作家たちと見てもそれほど間違いではないはずです。
もしくは、その何かしら変わりつつある感じが見える作家たちは、今あげた作家たちに対して意識的ではないのかもしれません。美術のなかでの枠組みというよりも、美術ではないイメージをソースにして作品を組み立てている。けれどそこでは、ポップアートやシュミレーショニズム的な意識はなく、
デザイン・フェスタで発表されていたような様式の作品が美術内部にもかなり増えていたのかもしれません。
このような状況は、日本のコマーシャル・ギャラリーなどからも見え始めています。美術館ではそのような現象はまだ目立った形では見えませんが、すくなくとも日本のマーケットではこのような動きが出てきている。この状況は何も、今回のアートフェアーだけで感じたことではなく段階的に何年か前から出始めている傾向です。
ですが、こういう傾向について直接考えるというよりも、00年代は何かあったのか、なかったのかを考えていった時に、グラデーション的にではあれ変化が生まれている(た)のではないかということから、迂回させこの問題に戻っていきたいと思います。こういった考えは、日本の現代美術におけるどマクロ的状況論ではありますが、状況論的な言説が美術内部ではあまりになくなってしまったことを考えると、一側面的な現象を暴力的に語ることは、ある部分で有用性を持つはずです。
00年代の10年は(まだ09年ですが)、一つの足踏み状態であったことは認めますが、その前半と後半で多少なりとも緩やかなグラデーションを作り出していたとも言えるはずです。ではそのグラデーションとはいったいどのようなものなのか。
まず一つに00年代の前半(1、2年の前後があると思いますが)は、リュック・タイマンスからローラ・オーエンスまでというように理解できるのではないでしょうか。タイマンスからオーエンスの流れをもう少し広げるために、ためしに以下の作家を入れたいと思います。
リュック・タイマンス→ガブリエル・オロツコ→ピーター・ドイグ→ウォルフガング・ティルマンス→ローラ・オーエンス
日本の作家では杉戸洋と落合多武などをあげることができるでしょうか。
矢印が時間の前後関係というわけではないのですが、少なくともタイマンスとオーエンスは日本で影響を及ぼすのが同時ではなかったし、オロツコとティルマンスも多少の時差があります。オーエンスはともかく、タイマンスの日本での影響は今ではほぼ過ぎ去ろうとしています。
※CD/画集世代考(1)でしめした状況と、うまくすり合わないところがあり混乱する方もいるかもしれませんが、状況は一元的でなく、かつきれいに区分できるようにわかれていません。いくつかのグレーゾーンと分離した状況が生まれていることは確かなので、自分の中で調整しながら読んでください。
ではなぜリュック・タイマンスからなのかには意味があります。彼の特徴は具象と抽象、また絵画史における引用、映像と絵画などのやり取りが、複数の別々の文脈(引用元)を横断的に利用して一つの体系性が作り出されていたからです。これは、上述した作家の基本構造として共通する部分です。タイマンスが、単に新しい具象絵画の復権だけではなく、形式的な側面において絵画というメディウムの問題を超えて、ある種のエポックメイキングとなりえていたと言えるのはこのような特徴を兼ね備えていたからだと僕は解釈しています。
彼らは美術史のアーカイヴを個人的な領域などを絡めて作り上げるデータベース的な作家と言えるでしょうか。ですから、タイマンスの作品というのは、マルレーネ・デュマスのような主題と形式に一貫性を持った作家とは違い、複数の主題と複数の様式をもち、それぞれの作品が関連するか関連しないかのギリギリのところで展示として、また作品リストとして、束ねていく。それはポスト・ヒストリカルの代表的なやり方として、またモダニズムとポストモダニズムの新しい形の調停として、一つの突破口を見出していると感じられ、その動きは新鮮な感覚を持たせました。ゲルハルト・リヒターは確かにそのような部分の先駆的な仕事をしていますが、リヒターよりも彼らは、よりナラティブ(小さな物語)な文脈(ノイズ)を意識させるように組み立て、リヒターのシリーズ作品的な統一性を拒否しているところがあります。
こういった手法はまずMOMAなど圧倒的なコレクションを誇る美術館などの機関で試みられた展示形式ではありますが、そのことが一人の作家の制作内部でも作り出されるようになっていったわけです。
それは引用する対象と作者の距離/関係が明確に決定されているようなマイク・ビドロやシェリー・レイヴィンといったようなシュミレーショニズムの作家とは異なり(その図式をコンセプトにするようなスタティックなものではなく)、個人史や場所性、偶然性などの不確定な要素(ノイズ)が組み込まれた有機的な関係を作り出していこうとしました。
複数の文脈/様式を一つの理論や様式で統御することなく、並列化させて進行させていくこと。このことは現在の地点から見ると、終わりなき組み替え(並列化)とコレクション的な作業に陥りやすく、行き詰まりないし失速を感じさせるところがあります。なぜなら自分のデータベースの全景をある程度提示してしまったあと、どのようにそのデータベースのシステムを展開させるのか、もしくは全体の見栄えを変えるかという問題が意外に難しかったのです。作品を展開させれば済む話ではなく、展示をいかに展開させるのか、作品と作品との差異自体をいかに変えていくのかがここでは重要になるわけです。つまり文脈の並列を越えた新しい関係性を作り出すのはどうすれば良いのかが、最初のアクロバットで強烈な印象を越えて作り出すのは大変難しい。
また、複数の様式を持ち込むこと自体、つまりそのシステム自体が任意で厳密さを持たないと、複数の相容れない文脈を入れ込めば条件として成立してしまうので、その印象が急速に普及し一つの様式として定着してしまったこともあります。少なくともシュミレーショニズムは主題なり形式を流用(アプロプリエイト)しても、その必然性をコンセプトとして提出していました。だから文脈を扱う時のそれなりのアリバイを必要としました。しかし、それがあまりに任意に文脈を持ち込んでいるようになると、観客はまじめに文脈を読み込まなくなっていく。
データベースといってもこれなんか変、これなんか面白い、これなんか良い、これなんか強いという作家の感性的な反応をもとにして集められることは、作品のソースとなるそれぞれの文脈を消化しているのとは別問題です。オーエンスは文脈や形式の軽さが良かったと確かに言えますが、そのやり方が普及してしまうと簡単に消費されてしまうところがあります。
そこには意味や作品理解があるわけではなく、文脈ないし様式のコレクション化が見られるのです。アーカイブというのは、少なくとも分類、配置、集合などの整理が求められます(ティルマンスなどはそのことに関して意識的な作家です)が、そういった交通整理みたいなものはなされることなく行われる。むしろそれは文脈が切り離される、もしくは文脈・様式が形骸化した状態でコレクションされていくという意識が強くなっていきました。
このことは、ローラ・オーエンスやカリン・ママ・アンダーソンの絵に見られる美術館や、コレクターなどの室内風景の絵よって強く示されています。これらのモチーフは、一時期彼女たちだけに限らず、極めて多くの作家たちによって扱われましたが(動物の剥製もこの類いに含まれます)、それを不穏に、もしくは批判的に、もしくは権威的に、もしくは極めてオプミスティックにとそれぞれの作家がそれぞれの姿勢で扱っていきますので、コレクションが集められた風景のモチーフは、極めて複雑な意味合いを持って取り扱われていたことがよくわかるものです。
このムーブメントは、自分の作品が含有している文脈に対する責任=応答可能性の力が脆弱化したカタログ/画像検索的な思考を結果的に強化させ、作り手もしくは観客の思考を変えていきました。もちろん例外と言える作家もたくさんいて、僕はこのムーブメントを一概に否定的に語りたくはないのですが、作家と観客の間で文脈の読解能力を疲弊させていったように思えます。
また、展示の見え方を尊重するために一点で完結した力を持つことを犠牲にしすぎているのも両義的に働いています。つまり作品と作品の差異が一つの形式となった場合、それぞれの作品は相互依存的になっている。それを安易にやってしまうと作品はどんどん仮設的になり脆弱化していく傾向がありました。
このデータベースの問題はもちろんインターネットの存在が少なからず関係していると言えます。画像検索能力は、ご存知のとおりネット、ブログの普及する以前と以後では比べ物にならないくらい向上しました。たとえ個々の作家の形成がネットやデジタル化の問題と直接関係がないにせよ、美術のムーブメントはそれと共鳴するように現れてきたのです。
そして文脈・様式を形骸化しどんどんコレクションしていく感覚は、すぐに飽和状態を迎え、失速します。
しかし、文脈・様式の形骸化の波が終わりを迎えたわけではありません。一度失われた能力は簡単には戻らない。今は冒頭で記述したように単純で直線的な表現感覚が強まっているのは確かで、使用する文脈・様式をもう少し実直な感性に結び付けて、日本人による日本国内でのジャポニズムもしくはアジア主義的な傾向を見せる作品が生まれ始めていると感じるのです。サムライブルーとかサムライジャパンに近いようなもので、特には日本回帰の文脈として内容を持っているようには思えません。様式はきわめて形骸化していますし、だからこそ彼らは無防備にフジヤマゲイシャ的に主題を取り扱える。
ジョナサン・ミースを始めとしたネオナチなりファシズムの美学や文脈を徹底的に形骸化することによってスペクタクルを作り出す運動と、日本の現代美術は同時代性を持っています(彼らは、どれほどその意識を持っているのかかなり疑わしいですが、意識的なアイロニーを持っているのも確かですが)。
ではジョナサン・ミースなどがアンセム・キーファーとどこが違うのかと言うことはまだうまくは言えませんが、キーファーほど圧倒的なスペクタクルを彼らは作っていなくどこかとぼけています(滑稽な露悪性(だらしなさ)と「かわいい」という文脈がファシズムを異化している???)。ですから文脈・様式に対するアイロニカルな考えと言うよりも、無防備さ・無邪気さが現代では売りになっているように思えます。
また、その形骸化した単線的な文脈/様式の技術的な洗練そのものを取り扱っていくことに対して、今は以前との反動でかなり無防備になっています。こう考えると最も盲従的な技術の創出と言える受験絵画的技術の推進は、村上隆が発言しているように今有効になりつつあるのも確かでしょう。
ですから、僕自身としてはコンテクスチャリズム(それがイデオロギーに対する盲目的な隷属という意味ではなく、一つの政治的な問題意識の表れだとするならば)というのは少なくとも今の状態では機能しておらず、日本らしさとかサムライっぽいとか、絶望的なといったイメージをうやむやで茫漠とさせたものの方(コンテクスチャリズムというよりも文脈・様式が形骸化した雰囲気化=形容詞化した美術)が、逆に圧倒的な影響力を持っているように思うのです。
そういった作品を頭のいい人が文脈整理して指摘(反応)したところで、それを作家はほとんど意識(問題に)していない場合が多い。声が届かない。それを本当に文脈と言えるのかどうかはわからないと言うことです。
今いったように00年代の前半と後半の変化を見れば、単に情報量や画像検索能力の向上が美術の状況を直接的に変えたということはなく、情報量・選択肢の多さから反動的な状況も作り出されています(もちろん情報量増化に対する反動的な状況が右翼的なものだけということでは全くありませんが)。
コンテクスチャリズムは少なくとも80年代から90年代に最も強く機能したものだと僕は考えます。この時代は良くも悪くも政治的な立ち位置(アイデンティティー)が文脈を形成する。そのため作家もしくはプロデュース側がそれを意識的に作り上げていきました。今、そのような前提の精密さ、意図的な判断をどのくらい気にしているのか、求められているのかは、作家も観客もよくわからなくなっていないでしょうか。
ここ10年の状況は、少なくとも90年代とは明らかに異なる状況にあるわけで、言ってしまえば不可逆な状況の変化でもあります。そこで単に状況に迎合することをしないとしても、今僕たちが必要とすべき「知」とはいったいどのようなものなのか。それをなすがまま、流れるままに身を任せるのではなく少しはコントロールしなければいけません。それが議論されていなすぎるのではないかと思います。それは状況論を無視することではおそらく制御できない。
こういった問題は、単にネットだけの問題に起因するわけではなく、経済や国際(国内)情勢などとかなり連動して引き起こされている問題でもあります。
また繰り返し言わなければなりませんが、確かに今の美術の状況を一元化して語ることもできません。ですから、そんなに不用意に状況論を語ることは、弊害も生まれるはずです。ですがこういった問題は、個々の作家のレヴューや過去の作家(状況)の分析・研究だけをしていてもあぶりだすことは不可能であり、今の状況の中で欠落した意識を補えない(補うことをあまりに多くの人があきらめすぎている、もしくはあきれすぎている)。放任主義から生まれるまとまりのない迷走を超える美術は、いかに作り出されていくべきなのか、今後考えていかなければならない部分だと思います。
※ここでは結論を書いていませんが、続きはまた今度。