
《レーヌ・ナタンソンと赤いセーターのマルト》 1928年
《レーヌ・ナタンソンと赤いセーターのマルト》は、鮮やかな暖色が画面の大部分を占め、屋外のテーブルで軽い会食が描かれているので、色彩的にもシュチュエーション的にも明るさと穏やかさを示しています。
この作品は、まず天気がよく木漏れ日の美しく楽しい印象を受けますが、しかしそれにしてはマルトの表情がずいぶんと硬直しています。マルトの硬直した様子が作り出している緊張感は、自然なようでいてこの情景には馴染んでいません。
マルトが同じ赤いセーターを着て描かれている《犬を抱く女》という作品のようなメランコリックな静けさはありませんが、一方で《レーヌ・ナタンソンと赤いセーターのマルト》は《犬を抱く女》のマルトと違って、リラックスした様子はなく緊張した感覚と忘我的な表情を見せているように思えます。穏やかなようでいて、緊張と違和感がこの画面には生み出されている。
タデ・ナタンソンの妻であるレーヌ・ナタンソンは、何気なくマルトの横に座っているようですが心配し気遣うようにマルトの表情を窺っています。ボナールも、ここではマルトに張り詰めている緊張感と忘我的な状態を隠すことなく意識的に描いています。また、目線的にも距離的にもボナールの位置というのは、同じテーブルに座っていることがはっきりと示されています。
しかし、マルトは彼らの気遣いに気を止めることができないかのように視線が二人から外れ、斜めの方向を見つめています。そのため一見楽しい会食のようですが、マルトは周りの状況から切断されているようです。それは絵なのだからマルトがポーズをとっているだけではないかと考えるかもしれませんが、ほかのボナールの作品を見れば、マルトの描かれ方はこのように硬直させて描く事を通常行っていないことからも、ある意思を感じさせるのです。
そのような考えから見ていくとこの絵から伝わってくる穏やかな雰囲気は一変することになります。なぜならこの絵の主題とは、穏やかで多幸感に満ち溢れている情景ではなく、その情景の中でマルトが引き起こした精神的な危機を描くことではなかったのかと考えられるからです。そうするとこの美しい光に満ち溢れている風景は、マルトの精神状態とのコントラストとして見えてくる。
この空間で最前部にあたるものはテーブルです。テーブルは、斜めりながらも明るい黄色で平面的に描かれています。レーヌの服や肌の色は、そのテーブルとほぼ同系色で描かれていて、まるで一体化しているような形で描かれています。つまり、レーヌは空間の最も手前にあるテーブルと一体化しているのですが、この絵を見てまず一番初めに目に飛び込んでくるのはマルトが着ている赤いセーターです。
空間設定としては、テーブルが一番手前にあり、マルトをL字状に囲っているのですが、視覚的には赤色の強さが前面に出て黄色は赤色を押さえ込むことができていません。マルトの存在が浮き立ってくる最も大きな理由は、この強く大胆な赤によるものです。意識的に赤を抑え空間になじませることをせず、マルトの頭部は逆光で影が強くかかっているのにセーターは非常にフラットで鮮やか赤で塗られています。
レーヌの心配そうに見つめているもしくはダビンチの《最後の晩餐》の十二弟子のようにどこかしら恐れおののいているようにも見える身振りのなかに含まれる無力感(つまりレーヌがマルトにアクセスすることが不可能な状況に見える)と、この色彩と空間の構築は同じ働きが見出せます。
このレーヌとマルトの関係は、中景で描かれている猫と皿を持っている女性の関係と対比的なものとなっています。猫と女性の間には、木やマルトが描かれることによって、空間が強く分断されています。しかしよく観ると、猫はおそらく餌かミルクを持っているであろう女性の方に意識的に寄っていっています。女性もまた猫の方を見つめています(それを主題とした作品をボナールは小品などで描いています)。ここでは、空間が分断されることによって、猫が餌を持っている女性のもとに歩いていく結びつきの関係性をより強くしていることがわかります。これは前景で描かれているマルトたちの近さと遠さの関係と対照的なものになっています。

《犬を抱く女》 1926年
レーヌとマルトの関係に戻りましょう。今度はマルトを中心に見ていきます。マルトのセーターの赤は、画面の中で一番強く、前面化して見えてくると描きましたが、ボナールはマルトの存在の鮮やかさだけを描きたかったわけではありません。
マルトの頭部は逆光によって影のなかにあります。それによってマルトの表情も影に隠れかかっている感じです。そういった中で、マルトの頭部は、色彩や構成の関係で後方にある太い木に固定化されるように結び付けられています。これは、レーヌと手前にあるテーブルが一体化されているのとベクトルは逆ですが同質のものです。
また絵の全体を見てみると、マルトの頭部、木、後景にある壁と茂みは、濃い緑や青、紫などの寒色によって色彩的にも空間的にも画面の奥へ後退して見えます。これらの色彩と、明るい色彩で描かれているレーヌは、コントラストによって距離感を作り出しています。このあり方だと、先ほど示したマルトが前面化してくる運動とは相反する運動を作っていることがわかります。
これは色彩だけに見られる要素ではありません。
セーターのストライプにおける垂直線は、木や奥にある格子(まるで牢獄のような)の垂直線と反応しあうようになっています。セーターのストライプも、木や後景にある格子の垂直線は後景へと導かれるように作られています。
《犬を抱く女》の場合は、背景や構図的には非常に構成的で強い垂直性を示しながらも、マルトやセーターのストライプは逆にしなやかな曲線として機能しているのに対して、《レーヌ・ナタンソンと赤いセーターのマルト》の方が構成的な画面ではないにもかかわらず、セーターのストライプは垂直線として画面の中でより強く機能しています。
これらのことからマルトの身体が前後に引き裂かれていることがわかると思います。もしくは、平面的・装飾的(実際《犬を抱く女》では、マルトはきわめて装飾的に融和するように描かれている)に押さえつけられる運動と、色彩による空間の押し引きやマルトの身体のボリュームが作られることが拮抗するように現れています。つまり押さえ込まれることと抑えきれなくなることという状態が同時に引き起こされています。
この空間と意識の相反する運動、その押し引きがマルトが置かれている状況そのものとして作られていると言えますが、ここでの問題は、それが単にマルトの中だけで起こっているわけではないということが重要です。なぜなら、この作品はそれを見ているボナールによって描かれている(画家はその位置を明示している)からです。
マルトの危機的な状態が、マルトの存在を浮き上がらせ、輝きを増している。これはボナールの中で起こっている意識の動きです。マルトの身体/意識を制御し、またバランスを失っているように見えるのは、マルトの中で起こっていることでもあり、また別のレベルでボナールの中で起こっていることでもある。
これは様式と対象性の問題でもあり、夫と妻、画家とモデルという関係のなかで引き起こされているやり取りということにも捉えることができます。繰り返しますが、《犬を抱く女》は対象と様式(平面的なものと構図の関係)の関係がきわめて巧みに調停されています。しかし、このマルトというモデル(対象)の浮き上がり方は、画面の統御をギリギリなものにしている。これはマルトの意識によるものなのか、ボナールの意識によるものなのか決定不可能です。
ボナールはマルトの神経の緊張感を、マルトの表情によってではなく、金色に光る髪の揺らぎとこめかみのハイライトで明確に表現できている。この事は空間的、もしくは様式的な問題とも関係しています。木と同一化をまぬがれようとする抵抗が、マルトの頭部に当てられている強い光によって作られているボリュームで示されているのです。ですから、テーブルと半ば一体化して描かれているレーヌとは意識が異なります。また、ハイライトによってマルトのこめかみと髪で意識の緊張を作り出させるというのは、単に構図や構成的なものに留まらない、ボナールの意識の鋭さを感じさせます(フィリップ・ガレルの映画、例えば『秘密の子供』を思い出すのは僕だけでしょうか?)。
マルトが状況から切断され引き裂かれ危機的状態に陥っていることを抑制させる一方で、マルトが対象としてより自律し、輝きを増していくようにボナールは感じとっている。その意味で、ボナールはマルトの心理状況に別のレベルで感染しています。ボナールは、ピカソのようにキャラクターされた暴力的な存在ではありませんが、マルトとボナールの二重化したインターフェースの中で、画家とモデルであり夫と妻のであるなかでのやり取りが不可分にそして倒錯的に現れている。
ボナールは画面を分割し構成的な意識を強く持っています。それはともすると古典的な意識、オーソドックスな絵画空間を作り出しているとも取れなくもないのかもしれませんが、ボナールは空間における意識の変化と視覚的な統合をそれまでの絵画とはまったく異なるようなやり方で組み込んでいきます。そこにはモネなどとは明らかにことなる主体と客体の混同や転倒的な変換が見てとれます。ボナールの場合、対象が光やタッチの中で移ろいゆき幻影化していくというよりも、画家の意識や立ち位置が、対象ともに揺り動かされ変化してしまうような状況が一枚の作品のなかに捉えられていると思います。