※自分が作家としてどう発言すればいいのかを思って書きましたが、内容としては今までの話と重複が多いので特に興味がなければ読まれないで大丈夫です。
今さまざまなとこで作家・学芸員・批評家の方たちによって、ウェブやシンポジウムなどで、これからの美術についての議論がなされています。またそういった人たちの話を読んだり聞いたりしてみると、実際に美術の状況をシフトしていかなければいけないという意識も高い。考えなければいけないことは多く、問題は山済みです。とはいえ誰しも、いまの美術のすべての問題について語れるわけでもその必要もありません。そんななかでそれぞれがいろいろな立場で美術に携わっているのであり、自分の立場からは何を語らなければいけないのかということを不可避的に考えなければいけなくなります。その態度や方法論がはっきりしている人もいれば模索している人もいる。僕もまた実際いろいろな人から話を聞いたりしながら、模索しているというのが現状です。僕は作家としては、けして作品至上主義的に考えている者ではありませんが、とはいえ自分の思考の中心は自らの制作です。働きながら制作しているのですから、お金も時間もかなり制限があり、美術の状況論的なリサーチに費やす時間はそれほど多くはありません。では作家である自分が、何を考え、何を発言していくことができるのか、またそうしていくべきなのか。
今さまざまな場所で行われている美術関係者の議論や文章の多くについて考えてみると、それらの問題意識には共通していることがあります。
作品・制作を内部的に考える(捉える)ことと、外部的に考える(捉える)ことでは大きく違います。それが前提となりながら美術は社会のなかで成立している。けれどもその前提を受け入れるにせよ、その乖離があまりにも大きくなってしまった。美術(作品)は疎外を恐れすぎたあまりに作品・制作を内部的に探求する思考に対して怖がりすぎたという気がします。
では現状をどう修正していくのかということ、これが多くの議論の基底をなしているように思えました。
それは別に芸術に自律性を再び獲得せよということではありません。自律性もまた当然外部があっての自律性であったわけですし、自律性ということが今ことさらに強調される必要はないと思います。
これは僕の考えですが、今考えるべきこととは、(反)芸術とは何かという思考ではなく、作品・制作を内部的に思考することが先行すべきなのではないか。その思考はあらゆる場所で実践・応用が可能な問題でもありますし、と同時に絵画や彫刻といったメディアでも同じように見ることができるものです。作品・制作という思考がすぐに絵画や彫刻にだけ収束してしまう危険性をここ日本では常に孕んでいます。そうなってしまうと「形式」に対する考え方も極端に矮小化されてしまいがちです。
ですから、現在東京国立近代美術館で行われている『ヴィデオを待ちながら 映像、60年代から今日へ』などは大変重要な展覧会だと感じています。また何度も書いていることではありますが、そういった意味で僕は美術(制度)からの難民、亡命者というものにも大変な大きな可能性を感じていますし(オルタナティブ・アートの考えられ方・あり方というのも、今更新されなければいけない問題と感じています)、美術でなくとも思考(体系)を持っている人(今生きている人に限らず)にも同じ思考を感じ、共感や尊敬の念を抱くことができます。
僕ができることといえば、このような作品が作り出される思考と実践を見つめる・考える思考について考えていくことなのかなと考えています。