最近このブログでは、海外の美術ばかり取り上げて、日本を含めた状況論的な話になるとやたら厳しい意見を書いている印象があると思いますが、僕は別に海外の状況を羨んでいるとか、日本の美術をことさら侮蔑しているというわけではありません。そして僕が日本の作家で尊敬している作家や、期待している作家、ライヴァルだと思っている作家はけして少なくありません。そして海外で評価されている作家や現象でも疑わしいと思うことがいっぱいあります。ただ、僕が日本の美術についてあまり固有名を挙げて語っていか(いけ)ないのは、自分が作家であることが大きいというのが正直なところです。
そして海外の美術を羨望の眼差しで見るのではなく学ぶべきところは学び、考えられるところは考えようと思っていること、日本の美術界を変えていけるところは変えていけるようにと考えているからです。
そのため日本の状況論に関してはかなりマクロ的な視点で捉えていこうとしています。例外もたくさんありますし、大枠に対する分析であることは理解していますが、それよりも状況に対する認識を変えていくこと、誰もが理解できる具体的な思考を進めていくことを重視しています。これが最近、このブログで状況論的なものを考えるときの一つの姿勢としています。
美術はこれから何年かは新しい流行も、世界が動いていくような新しい状況も出てこない可能性が高く、すでに現代美術は長い期間足踏み状態であることは多くの人によって指摘されています。それに対する突破力を模索していることや、国際政治的な状況を見てもグローバル単位で動いていくようなことが難しいなかで、マーケットは別としても、日本の美術自体はある意味で内向的になりつつある、というよりもローカルであることに開き直る傾向が強まっています(ここらへんのことは重複があり、この繰り返し前提を書くことはブログという形式上必要だと思いますのでご理解ください)。
そしてドメスティックに振舞うことはアートバブル時に他国との差異化を図る有効手段として称揚される傾向がありました。しかし、長期的に考えるのではあれば、この傾向はますます日本の現代美術を迷走させるといえます。
なぜならば、その構造は海外における美術の評価が、経済的もしくは地政学的な関心と比例するからです。日本が国家的・経済的に弱体化を見せれば、日本の土着的な嗜好など関心をもたれないことは明らかです。
けれども漫画やアニメは、海外から評価されているじゃないかといわれるかもしれませんが、それは漫画やアニメが別にドメステックな文脈を作り上げようとして作り出されていたのではなく、漫画はそもそも海外との状況が切り離されていたのでありローカルという概念がなかったこと、それによってしっかりとした質と文化の土壌を作り上げてきた(こなければならなかった)からです。これは、浮世絵も日本のプロ野球も一緒です。野球がなぜ力を持っていたかというと、日本の野球、文脈がどうだこうだと考えていたからではなく、単に海外と切り離してもグローバルに対応できる(ローカルであるという自意識を持たずに)土壌を作り上げていたからです。その積み重ねがあってこそ、WBCでは日本の経済的な低迷とは無関係に実力を維持できたと言えるのではないでしょうか。
ですから中国の美術作品のバブリーな高騰を見て、日本の現代美術が真面目にモダニズムを吸収しようとしたのが間違いで、中国美術のように土着的な傾向を強めようという意見は、グローバルなマーケティングを考えてみてもそんなことはないだろうと考えてしまいます。それと同時に、すでに安定した美術史的価値やモダニズムを過信しそれに追随している自負だけでは、ただローカルなだけということになってしまいます。
ですから今の状況を見るかぎり、この際、美術は一度内向的になっていいのではないかと思います。ただ、競技(勝ち負けという意味ではなく)として、ジャンルとして、一度真剣に土壌を作り上げることを考えるべきだと思います。それは「悪い場所」という自意識を問題としません。ローカルかどうかなんて自意識を捨て去ること。これは先にあげた野球、アニメ・漫画、浮世絵に共通していることです。
この問題は現代美術というヒエラルキーをもう一度信じるということではありません。むしろ現代美術というヒエラルキーなんか安定してあるもんじゃないのは誰の目にも明らかなんだから、土壌を作るしかないんだということです。もちろん、これは美術の状況論的なものに意識を配って美術を全体主義的に考えていこう(まとめあげていこう)ということではありません。まず自分が現代美術というあるんだかないんだかわからないがゆえに漠然と規定されているものを理解し解体しましょうということです。それができれば美術はおのずともう一度思考し始めるんだと思います。
この15年の経験は、非常に有意義なものであったことは確かだけれど、それと同時に手放した土壌(まるで減反政策の痛手みたいな話です)というのが大きいのです。現代美術はもう一度解体と再構築が組まれるべきであり、そうでなければ日本の現代美術(輸出産業として考えるにしても)は、枯渇すること(食糧危機と同じように)を意味します。世界や日本が変化を求められているのに美術が変化を起こさなくて済むはずがないのです。