日本の○○という作家は悪くないが、作品が趣味っぽいという話が友人の口から、それと同時に海外の作家△△はプロっぽいとも新しいとは言わないが、フレッシュな気がすると。この違いはいったいなんだろうという話に。僕はそこで、おそらくそれは環境の違いなのではないだろうかという身も蓋もないことを言うしかなかった。
僕はその○○に対する批判は十分理解することができるけれど、と同時に評価し、期待している作家であることは間違いないので(といっても年齢は僕よりずっと上)、う〜んと考え込んでしまった。趣味っぽいとはいったいなんだろうか?感覚的には理解できるのだが、言葉にしようとすると難しい。
たとえば、Martin Creedのような作家というのはけして趣味っぽくないし、自分の表現に対してナイーブではない。
Martin Creed
http://www.martincreed.com/works/index.html
しかし、彼の作品の大半は見れば誰にでもわかるようでありながらも、コンセプチュアルアートの文脈がなければ、マジックが引き起こされないという意味で、かなりの教養主義といえるのではないか。どこに向けているのかといえばやっぱり現代美術ギョーカイに向けていると僕は思う。現代美術というゲームのフレームが消えてしまえば何も残らないこと、それに対して作家は非常に意識的であるが、この空疎を学べというのはここ日本においては難しい。しかしCreedには明らかに美術の状況があり、あるからこそこれらの作品が趣味っぽくなく、一定量の緊張感(刺激)を兼ね備えているといえるのではないだろうか。彼がやんちゃ坊主であれ、それは美術(親)からの自立など到底ありえないことが前提なのだ。
もちろんCreedや海外の状況を批判したところで趣味的であることがなんら肯定されるはずもない。もちろん海外は日本などよりも多様であり、さまざまな場が成立しているわけだが、海外の状況は少なくとも日本より作品が、現代美術のフレーム/ゲームが成立しているという前提のもと成立している。なんにせよ僕はこの前提には抵抗したい。海外においてもこのような議論はいくらでも起こっているはずだ。良くも悪くもCreedが所属しているような環境が成立しない中で、趣味的にならない方法とはいったいどのようなことなのか?(それが海外への進出を夢見ることしか方法がないということでもないだろう)、もしくは趣味的であることを武器にするということはどういうことなのか?を考えてみなければならないだろう。いつまでたっても政治に無自覚じゃぁダメだということなのだろう。友人の何気ないひと言がグサりと突き刺さってしまった。