『ニーベルンゲン:第1部「ジークフリートの死」:第2部クリムヒルトの復讐』(1922-24年)は、ドイツの国民的英雄叙事詩である『ニーベルンゲンの歌』を原作とし、テア・フォン・ハルボウが脚本を書き、夫であるフリッツ・ラングが監督した映画である。『ニーベルンゲン』は、286分という約5時間のなかで語られる非常に壮大な叙事詩的作品だ。高い美術的な意識によりファンタジーにつながるような絵画的で幻想的な世界観が作りこまれている。
この作品を見れば『スター・ウォーズ』や『ロード・オブ・ザ・リング』、『ネヴァーエンディング・ストーリー』などの映画作品の原型として他の映画にいかに影響を与えているかを理解するできるはずだ。
この映画は、ドイツが第一次大戦の敗退とその時に結ばされたヴェルサイユ条約によって苦しめられ、さらに経済的にハイパー・インフレーションも引き起こしていたなかで作られている。そのような状況で長い時間をかけ、これだけ壮大な映画を作り上げたこと、さらにこれがドイツの国民的英雄叙事詩であることからもわかるように、単に芸術的・娯楽的な価値だけではなく「国民映画」となるためにこの映画は作り出されたのだ。
だが、ここではあまりそれを中心にして考えないようにする。それらのことは、多くの人々によってすでに語られているので改めて書く必要はここではないだろう。
また『ニーベルンゲン』は、ヒットラーのお気に入りの映画だったことや、のちにユダヤ人であるラングは、ハルボウがナチスに協力していくことで彼女を捨て、パリに亡命していくことなど作品外部の事実だけを見ていっても語るべきことはいくらでもある。ドイツ国民の気質や精神性や嗜好の典型であるとされているこの作品を分析すること(たとえばドイツ人はなぜこのような叙事詩が好きなのかとか)で、当時のドイツを分析することも今回はしないでおこう。他の普通の映画作品と同様に、この映画を分析して見たいと思う。それでもおそらくこの映画の特殊な部分が導き出されるのではないだろうかと考えている。
この作品を説明するには最低限の物語は説明しなければならないだろう。さすがに286分の映画のあらすじということもあって少し長くなってしまうがご辛抱いただきたい。
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あらすじ
第1部「ジークフリートの死」
ジークフリートは、旅の途中で出会った竜を倒すことに成功する。その時不死身の身体を得られるという竜の血潮を浴びるが、一枚の木の葉が背中に落ち、そこだけ血潮を浴びることができなかった。
その後ジークフリートは、小人族の王アルベルヒを倒しニーベルンゲンの財宝と隠れ蓑を手に入れる。そしてブルグンド王ギュンターの妹クリームヒルトの噂を聞き、求婚のためにブルグントの城を訪れる。
二人は恋に落ちるが、王の重臣ハーゲンが二人の結婚を承諾するための条件を提示する。その条件とは、ジークフリートがギュンター王とアイスランドの女王ブルンヒルトを結婚させるために力添えをすることだった。
一方ブルンヒルトがギュンターとの結婚の条件として提示してきたのは、非常に強い力を持つ彼女自身と競技で勝負することだった。ジークフリートは手に入れた隠れ蓑を使ってギュンターに力添えし勝負に勝つことができた。それによって、ギュンターとブルンヒルト、ジークフリートとクリームヒルトの二組の結婚式が開催される。
しかし妻になったブルンヒルトは、威嚇しギュンターを近づけさせない。ハーゲンに催促され、再びジークフリートは隠れ蓑を使いギュンターになりすまし、ブルンヒルトを力でねじ伏せる。
しかし、後日ブルンヒルトからジークフリートを侮辱されたクリームヒルトは、怒りで我を忘れジークフリートがギュンターになりすましてブルンヒルトを打ち負かしたことをもらしてしまう。そのことによってブルンヒルトは、ジークフリートへの復讐へとすべてを向ける。そして、ブルンヒルトにジークフリートの殺害を要求されたギュンターは、ハーゲンからの後押しもあって暗殺に同意してしまう。
ハーゲンはクリームヒルトを騙し、ジークフリートの弱点を聞き出して殺害に成功する。ジークフリートの死を確認したブルンヒルトは彼の棺の横で自害する。クリームヒルトはジークフリートの死によって怒りで身体を震わせ、ハーゲンの死を要求するがギュンターや他の者達がハーゲンの行動はギュンターへの忠誠であるとし彼女の要求に反対する。
第2部「クリームヒルトの復讐」
ハーゲンはクリームヒルトに奪われまいと、ジークフリートが持ってきたニーベルンゲンの財宝を持ち出しライン河の底に隠してしまう。
一方ハーゲンの裏切りと卑劣な暗殺を知ったクリームヒルトは復讐心に支配され、求婚してきたフン族のアッチラ王を復讐の手段として使うために応じる。
それからアッチラの子供を生んだクリームヒルトは、ギュンター王一行を城に招き、苛烈な復讐を実行することに成功する。初めアッチラ王はハーゲンを殺害することに対して反対していたが、息子をハーゲンによって殺されクリームヒルトに協力する。
城に閉じ込められ攻撃を受けるギュンターたちにクリームヒルトは、ハーゲンを差し出せば他の者の命は奪わないという条件を出す。しかし彼らは、ハーゲンへの忠誠を誓い引き渡さない。そのためハーゲンを除くすべての人間が殺されてしまう。
最後までニーベルンゲンの財宝のありかを言わないハーゲンを殺害したクリームヒルトは、また自らも命を絶つことで映画は終わる。
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忠誠心とエゴイズム
この物語では、忠誠がエゴイズムを生み出し、エゴイズムが忠誠を成立させるというエゴイズムと忠誠の表裏一体的な関係が描き出されているといえるのではないだろうか。
そのような状況の中で、登場人物すべてが幸福を得ることはできず、不自由さ人間が従わされるという状況が描かれている。この不自由さは、権力や武力では抵抗できないものとして、すべての人間に平等に降りかかる悲劇と言えるだろう。しかし、これを誰もが運命の被害者である、もしくは人間は宿命に抗えないと読むのではなく(そのように作り出されているのだろうけれど)、むしろ批判的に物語を考えることもできるのではないだろうか。
この不自由(宿命)が平等に降りかかる状況の中で、主従関係の描かれ方も、きわめて奇妙なものとして映し出されている。なぜなら物語では、重臣であるハーゲンこそが王よりもブルグンドを束ね動かしてしまう力を持ちえているからだ。ハーゲン殺害はクリームヒルトの要求であっても退けられ、最後ではギュンター王もハーゲンのために命を捨てる。しかしハーゲンもまた権力を持たず、最初から最後までブルグンド/ギュンターのために行動している。
しかし、彼らを忠誠に導かせているものとは何か、もしくは忠誠の行使がどのようなものを引き起こすのかといった事態を見通したときそこには極端で頑ななエゴが存在することが認められるのではないだろうか。
また主従関係の問題だけでなく、善(意)悪(意)や被害加害の境界線もまたここでは成立し得ないようになっている。ジークフリートの死はすべてクリームヒルトの善意(愛)と無防備さによって引き起こされるのである。またクリームヒルトの後半の卑劣な大虐殺もまた、ジークフリートの死(忠誠心)によって引き起こされるのだ。
それまでは娘たちと過ごし一国の女王として長いあいだ国を守ってきた人物であるブルンヒルトに強い復讐心とねじれた精神を植えつけたのは、ジークフリートも含めたギュンターたちである。
1部では白い衣装を着ていたクリームヒルトが、後半はブルンヒルトのように黒い衣装を着て、彼女の反復ともとれる復讐を決行することもまた極めて示唆的だ。
さらに自由で清清しいキャラクターとして描かれるジークフリートは自由主義的な理由により竜を殺し、アルベルヒを殺している。ある意味でハーゲンはこの個人主義的で自由主義的な精神を憎みジークフリートを殺したとしか思えないような側面を持っている。しかしハーゲンは、全体主義的な精神を持っているようで最後は自分の生き残りによって国家を破滅させてしまう。そこにハーゲンの矛盾があると言えよう。
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性的なものを通過させることについて
さてこの忠誠心とエゴイズムなど一見相反して見える精神の結びつきを細部の表現で見事に描き出しているこの映画では、また男女における性的な関係においても、直接的に描かないことによって、見る者に暗示的に意識させ、よりその暴力性をあからさまに感じさせる手法を取っている。そこではもちろん所有の問題が関係する。
まず第一に、結婚とは当然性的な関係を要求し、ブルンヒルトがギュンター王を拒絶したのも性的な要求に対してだということは簡単に想像がつく。さらにジークフリートがギュンターになりすましブルンヒルトを力でねじ伏せるシーンは明らかに性的な関係を想定させる。つまりハーゲンは新婚であるジークフリートに、ギュンターの妻であるブルンヒルトと強制的に性的な関係を結ばせたのだ。でなければブルンヒルトがジークフリートにあそこまで復讐心を持たせないであろう。同時にジークフリートの棺の横でブルンヒルトが自害したのは大変意味深である。
そしてそれはブルンヒルトの反復である後半におけるクリームヒルトが、復讐のために不衛生で原始的な格好をしたアッチラ王に身体をささげる(それは子供が生まれることによって告げられる)という事態によって、さらにそのことが決定づけられていってもそれほど間違ってはいないだろう。
さらにこのクリームヒルトのこの身売りは「放棄する」という意味で、ハーゲンのニーベルンゲンの宝を河に投げ入れるという身振りと対照的な関係に置かれているように思われる。ハーゲンのそれは、「隠す」というよりも「放棄する」という行動に見え、ハーゲンは何一つ所有する欲求を示さないがゆえに放棄する、奪うことに対して何の躊躇もないのである。それに対してクリームヒルトは、ただハーゲンの死を所有したいがために自らの身体・精神を放棄するのだ。
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建築と装飾
この映画を見てすぐに印象づけられるのは、大変装飾的な建築と衣装やセット、つまり舞台装置や映画美術的な部分だろう。
第1部「ジークフリートの死」では、グスタフ・クリムトなどを想起させてもおかしくない単純な文様によって構成された、きわめて装飾的意識によって建築・衣装が作られ画面が統一されて作り出されている。
第1部の中心的な場所として描かれるブルグンドの城は白い壁と装飾的な文様によって構成されており、クリームヒルトの服装も白が強調されているため、ロセッティの『受胎告知』のような印象を強く持った。しかしそれらの空間は、クリムトとは全く違うものである。たえず中心性を意識させる強いシンメトリーな構図・空間が支配的に置かれている。また人物もクリムトにおける官能的な人体のポーズや曲線は作り出されることなく、ジークフリートを除いて他の登場人物は、陰鬱でみな身体をこわばらせ硬直させている。そのような人物の描かれ方は、ラファエロ前派や象徴主義的な雰囲気を強く出してもいるとも言えるだろう。
第2部では、主な舞台がフン族のアッチラ王の城に移るために見え方が一変する。城は土壁であり、フン族が住むのは洞窟であり、暗く直線が消えている。木によって作り出された装飾や原始的な空間が広がっている。1部では空間の大半を占めていた白い壁は消え、クリームヒルトの衣装も白から黒に変わり、整頓され構成された文様もなくなり、土や木や毛皮などのマテリアルが強く見える暗くぎらぎらした画面になっている。直線は失われ、シンメトリカルな構造も全体のなかでは印象が弱まっている。
もちろんこの変化は、1部では素朴で純真だったクリームヒルトが、ハーゲンに対する復讐心と憎悪によって別人になってしまったこと(彼女自身が言うように、彼女はすでに実質的には死んでおり亡霊ようにこの世にとどまっているだけの状況)、同時に彼女がそれまで住んでいたところとは一変した環境のなかに身が置かれているという劇的状況を作り出すために作り出されているのだ。
と同時にこの映画ではそういった建築の扱いについて批判しなければいけないところもあるだろう。『メトロポリス』(1927年)などにおけるラングの平板な背景の作り方は、『ロード・オブ・ザ・リング』や『スター・ウォーズ』のような空間認識の基盤となっていると言える。しかしそれは背景が、スペクタクルとして、もしくは舞台設定の説明的な役割として安定した位置を保ってしまうところがあるからだ。人間と背景のどちらが画面の中心になるかはケースバイケースであるにしても、人物と背景が一体となって画面を活かされることはなく、どちらか一方が引き立てられ、どちらか一方が貶められる構造になってしまっている。
とはいえラングのこの空間を簡単に切り捨ててもつまらない。シンメトリーな構造を持った劇場的な舞台装置において、画面の中で中心に据えられたドアの存在が、常に向こう側や部屋の外を意味する象徴的な存在として画面に繰り返し表れていた。それは映画の最後、ギュンター王の篭城とクリームヒルト眼差しの切り返しとしてドアの両面を映し出すのだ。それが破られることによって物語りは終わりを迎えるのである。それはドアと映画に対するラングの回答として理解することができた。