岡田温司著「芸術と生政治―現代思想の問題圏」は、タイトルどおり芸術と「生政治」の関係を中心にして問題が語られている。「生政治」とはミシェル・フーコーから提示された問題圏であり、ジョルジュ・アガンペン、ロベルト・エスポジトらによって練り上げられたものである。
本書で洗い出される問題は“医学、解剖学、生理学、優生学、衛生学、生物学、精神病理学、統計学、人類学、犯罪学など、近代における「生政治」(そして「死政治」)の担い手となってきたこれらの知は、芸術(あるいはもっと広く視覚文化や表象文化)といかに交錯し合っていたのか”ということであり、そのような角度から「近代」とその根源を見つめなおす作業である。
その中で見えてくることは、「生政治」における知や権力と、芸術との深く密接な関係だ。芸術作品の管理、保存・修復や鑑定などきわめて具体的で技術的な問題の中で起きた(ている)論争において、それら知の存在は深い影響を見せていることが示されている。そしてまた、ある部分では芸術が「生政治」に先んじて観念・概念の形成を行い、諸科学などにおける分析の基底面を作り出していたことを明らかにしている。
そういった大きなテーマ設定のなかで、次のような問題が分析/検証されている。
Tミュージアムとパノプティコン
ミュージアムという近代的な装置の成り立ちとその背景。そこに含まれている制度的な問題と、それら建築のあり方。
U絵画の「衛生学」―保存・修復をめぐる「生政治」
絵画の保存・修復の問題をめぐる論争において、絵画の「古色」にたいする認識の対立が「作品」と「時間」もしくは「歴史」の認識(その政治性)を浮き彫りにする。そうような中で当時のヨーロッパでは、国によってそれらの技術にたいする認識の差異がある。そういった認識と国家観や歴史性、政治性との関係性について。
V芸術の身体、生政治の身体
作品の中に描かれる身体の捉え方や人種・人格の描きわけなどと、諸科学(観相学、骨相学、犯罪学、比較人類学など)の関係性、とその中で生まれたいくつかの論争。そこに潜む優生学・人種差別的な意識の捏造の背景をめぐって。
W芸術は有機体か?
作品分析・美術批評や建築と、国家論や都市論などの言説において使用された有機体モデルとはどのようなものであったのか。有機体モデルとファシズムの美学との関係性。
X鑑定と鑑識―芸術的同一性と司法的同一性
ジョヴァンニ・モレッリ(脱中心化された「無意識の」細部の特徴を重視)とシャルル・ブラン(画家の精神性の重視)の鑑定の方法論における論争。
モレッリ自身の「同定」作業と、「モレッリ方式」やモレッリの後継者たちの「同定」作業のズレ。モレッリ自身による「モレッリ方式」に対する裏切りと、にもかかわらず「モレッリ方式」が重要視された背景として、当時の比較解剖学や犯罪人類学との共犯関係。
Y生政治/死政治の彼岸へ
テオドール・ジェリコーの《切断された首》や《解剖学的断片》や五つの「モノマニー」の作品と、描かれた当時の時代背景。ジェリコーのそれらの作品に対する既存の解釈を覆す解釈から導き出されるこの作家の特異性とその眼差しの性質について。
「生政治」と死政治の相関関係について。精神異常者と死刑の存在と、司法、精神医学や観相学の形成について。
冒頭にも示したとおり18世紀後半から19世紀の近代の成立や根源を中心としながらも、この本の視野はすさまじく広い。ルネサンス期の作家や著作から、18、19世紀の理論家、科学者たちはもちろん、ジョナサン・クレーリやアラン・セクーラという現代の美術・写真の理論家までが登場したりする。またある章の結びにおいてデュシャンの作品が言及されたりもする。
言語、国、ジャンル(水平性)や時代、歴史(垂直性)を文字通り縦横無尽に横断し、膨大な文献や作品を提出しながら組み立てられる理論にはとくかく驚かされるほかない。
しかし、そういった文献リサーチの自由度の高さだけがこの本の特徴的なことではない。この本の組み立て方、各章の束ね方(その暴力性)、形式に対する認識の高さが、この作品を極めてエキサイティングなものにしているのだ。
各章で語られる非常に具体的な問題をめぐっての「生政治」と芸術の諸問題は、あまりにも大きく、それぞれが自律したディスクールであり、本の全体として、簡単に結び付けられ組み込まれるものではない。また章のどれがこの本の中心となっているというようなヒエラルキーはなく、各章が関係性をもちながらも、衝突しあいながら全体が成り立っている。
こういった本全体の組み立てられ方とは、「芸術作品は有機体か?」のなかでアンリ・フォションの『かたちの生命』について書かれた文章、“時間や空間のなかに固定化された秩序ではなくて、たえず変容をくりかえす「かたち」の様態であり、単一の様式展開ではなくて、複数の様式の休むことのない「不揃いな歩み」”として、その姿勢を見出せるはずだ。それは『かたちの生命』の引用である、「歴史は、調和のとれた絵画がまとまりよく並んでいるといった体のものではない。それは各所で多様性と交流をもち、衝突するのである」といった歴史認識を忠実に実行しているものと考えられる。
均衡と不均衡の境界を絶えず往復しながら成り立つ全体。この本では、内容だけでなく、形式・構成においても「生政治」との関係を自覚的に従え、きわめて倫理的に組み立てている作品と言えるだろう。
各章で示されるそれぞれのディスクール(領土・領域)は、芸術と当時の諸科学の知が、(反発的にであれ、肯定的にであれ)「生政治」的な意識とけして無関係でいることはなく、その基底面を作り出そうとしていた。その中で著者は、芸術と諸科学の知が孕んでいた大変危険な部分に対する分析・検証の仕方、問題意識、方法論にたいして一貫した姿勢を示している。この明確な意識とは、読み手にも大変思考を促すものだった。
それはこのようなものだった。取り上げられるさまざまな論争は、けして相容れない芸術・科学の諸要素に対するニつの態度である。しかし、文献を幾層にも重ね合わせながら歴史的な考察のもと、そこに潜む歴史的な誤診や危険性について逐一明確に断罪・批判しながらも、そのわかりやすい勝敗をつけさせるものではなく、むしろその論争の二元論的な側面を解体し再構築が行われているのだ。
その例をいくつか挙げてみよう。
・ 歴史的な勝利と影響力を獲得したかに見える「モレッリ方式」とモレッリ自身の「同定」方法の差異によって、モレッリの方法が、奇妙にもブランに接近すること。
・ 絵画の「古色」を「汚れ」と捉え洗浄するのか、それとも作品は時間によって作られるものと捉え修復に慎重になるのか、という論争は安易な二項対立ではなく、一筋縄ではいかないさまざまな意見が提出される。しかしそれでも保存・修復をめぐって、相容れない態度の問題が解消されるわけではない。
・ ハインリヒ・ヴェルフリンにおける「クラシック」と「バロック」の対立概念のパラドックス。お互いがお互いの例外になることによって始めてその区分が成立するという意味で相補的な関係。
この本の中で取り扱われている、相容れない二つの対立・論争は和解を見ることなく、複数の側面が引き出され、二元論という簡単な対立は宙刷りとして無効化されるのである。それがこの本全体に貫かれた形式だった。
著者のその明確な態度・眼差しとは、「生政治」と「死政治」、生者と死者、人間と非人間、正常と異常、動物と鉱物、大人と子供、という“二項対立に疑問を投げかけ、その境界線を侵犯し無効”にしていくテオドール・ジェリコーの作品とその眼差しに接近していくものであると言えるだろう。ゆえにこの本の最後の章というのは、最後にふさわしいものとして置かれていると感じる。
この本を読んで、問題が何か解決するわけでもなく、明瞭な答えが与えられるわけでもない。しかし、宙吊りにされた複数の問題が包含・配置された地図を手に入れ、我々は今まで気がつくこともなかったさまざまな認識を深く考えていくその契機として、この本は確かに一つの大きな存在感を獲得している。

テオドール・ジェリコー《切断された首》