
Constantin Brancusi『CaryatidU』(1914)
Constantin Brancusi(コンスタンティン・ブランクーシ)の『CaryatidU』(caryatid=女人像柱)という彫刻は、Auguste Rodin(オギュースト・ロダン)のcaryatidのシリーズが強く意識されていたのではないだろうか。その意味で『The Fallen Caryatid With Stone』と『CaryatidU』の作品について考えてみることにする。
Rodinが作ったこの『The Fallen Caryatid With Stone』は、石を女性が持ち上げているという構造は持っているが、タイトルでも示されるとおり、すでに柱という存在から完全に外れてしまっている。Rodinはcaryatidを建築から切り離すことによって、彫刻として自律する事を強調させているのだ。
それにたいしてBrancusiは、古代や原始美術の影響を受けながら『CaryatidU』でさらに問題を推し進めていると言えるはずだ。『CaryatidU』は他のcaryatidとはまったく違うところに着手している。caryatidとは柱が彫刻へとなっていくのに対し、この作品は彫刻が柱に近接している。それは、再び建築のなかへ戻っていくことではなく『CaryatidU』もまた建築から切り離され、彫刻として自律しており、ここでいう柱とはRodinが解体した柱と同じ意味ではない。Brancusiにおける柱への近接は、Rodinとは違う意味でむしろプレモダン的な彫刻のあり方を解体しようとする運動なのである。
柱とは地面と天井に一定の距離を保つ・固定するための中間的な存在である。だから天井と床をつなぐ柱自身は、上でもなければ下でもない。そこに決定的に上下の関係を作り出すのが多くのcaryatidの形式といえるだろう。その意味では、『The Fallen Caryatid With Stone』もその形式を守っている。
しかし『CaryatidU』では、多くの建築における柱がそうであるように、上下を反転させても違和感なく成立するような形体(骨組みの問題ではなく造形的な問題)になっているそういった柱の存在は近接しているといえるはずだ。
従来であれば彫刻は前後左右においてシンメトリーな構造など反転可能な作品というものはありえたが、上下の関係、そのヒエラルキーは絶対的に置かれていた。『CaryatidU』のように人間の身体をこのように単純化させ、ここまで上下の関係を反転可能なものとして見せたのは非常にラディカルだ。
とはいえもちろん本当にこの作品の上下を反転させてしまっては、作品の意味は変わってしまう。本当の意味でそれを徹底されるとすれば、Donald Judd(ドナルド・ジャッド)のstackの作品を待たなければいけないし、Brancusiの『無限柱』ほど徹底されてはいない。しかし、『CaryatidU』のほうが、それらの作品よりも見る者に上下の反転可能性を意識させるのは、上下のわずかなズレ、不均質さがあるからだろう。そこに認識としてわずかなズレが引き起こされるからこそ、概念的なものから漏れるようなエフェクトを見る者のなかに作り出しているといえないだろうか。

Auguste Rodin『The Fallen Caryatid With Stone』(1880-1)
柱という構造上、重力や力学の問題が含まれるが、その柱に人の形体を与える時、実際にかかっているそれらとは別に、人が支えている、もしくは持ち上げているというような表情が作り出される事が多々ある(棒立ちの人間が、ただはめ込まれているものもある)。この『CaryatidU』も、『The Fallen Caryatid With Stone』もその例に当てはまる作品だ。人が物を持ち上げる時にかかっている重圧、持ち上げようとする身体の表現は、形や素材によって与えられ、実際の重圧や力学的な構造とは異なって立ち現れる。
Rodinのこの作品は、今にも石が人を押しつぶしてしまうほどの重圧を見せており、女性の首は今にももげそうだ。それに対して、Brancusiの作品は、足・腕・腰にあたる部分の曲線によって、ひょいっと持ち上げられているような軽さが備わっている。
『無限柱』は天井がないのでどこまでもうえに上っていこうとする運動が作り出され、『空間の鳥』(Brancusiの作品)は飛翔を思わせるのびやかな運動を作り出しているのとは違い、caryatidは持ち上げようとする力学的な運動・緊張が、空間に広がっていくことなく、まるで蓋をされるように地面と天井(一つのフレームの中)で閉じている。その力学的均衡は、RodinもBrancusiもどちらもそれぞれ非常に面白く作り出しているが、この2つの作品において決定的に違うところがある。
それは、Rodinは一つの固まりとして掘り出されるように作り出しているのに対し、『CaryatidU』では上部の2つの木材は、それぞれ切り離されて物理的に離れていることだ。(上にいくにしたがって大きくなっていく2つの木材はその簡素な形や処理によってさらに台座を思わせ、この彫刻の反転可能性をより示唆していると思う。)この2つの作品の違いはとても大きい。それによって2つの作品における物と身体の関係や力学的なフィクションの可能性は、大きく異なるものが導き出されている。

Amedeo Modigliani『Caryatid』(1914年)
Brancusiの『CaryatidU』と同年に制作されているAmedeo Modigliani(アメデオ・モディリアーニ)の『Caryatid』では、持ち上げている物ではなく、荷重がかかった時に作り出される女性の身体(その丸みと曲線)だけに関心を向けている。そのため女性の身体のずっしりとした重さが、持ち上げている何かの重さよりもはっきりと描き出されている。その重さとまるで雨によって形が削られた彫像(遺跡)ような作られ方に絶妙な官能性を生み出している。