読書会を企画したTくんから、僕が書いた「『アンフォルメル以後』のレジュメ」に応答がありました。
レジュメの補足として、宮川淳の著作集『絵画とその影』に収録されている『反芸術 その日常性への下降』のメモをいただきました。
多謝!!
宮川淳『反芸術 その日常性への下降』(1964)より
アクション・ペインティング、アンフォルメルから反芸術への移行|論点整理
1■アクション・ペインティング、アンフォルメルの可能性とは、「マチエールとジェストとのディアレクティク」にある。
※その可能性は、「物質・素材と身振り・行為との弁証法」によって、表現過程が自立し、自己目的化すること
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2■しかしそれは、直接的な自己表現のための手段に短絡され、流産してしまった。
※表現過程が自立することと、作家の自己表現とはまったく異なる
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3■その後に残されたのが「反」芸術的傾向である。
※この移行は、「抽象/具象」の二元論、「きれい/きたない」という芸術の衛生学で片付けられる問題ではない
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4■反芸術の特徴は「卑俗な日常性への下降」と規定されている。
※そのかぎりにおいて、反芸術は従来の芸術に対する否定的側面をもちうる、しかしそれは副次的なものにすぎない
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5■「日常性の導入」は「表現過程の自立」を前提とする、それはなぜか?
※例えばジャスパー・ジョーンズは、「描くために描く」という自己目的化した表現過程に「終わり」を与えるための知能的な口実として、旗や標的といった主題を導入した
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6■ジャスパーにおいては、単に表現過程の事物性への自立ばかりではなく、さらに事物の行為への還元という二重の操作が行なわれている。
※「日常性への下降」という傾向は、〈事実〉の世界への復帰であるかに見えて、かえってレアリテの概念を空無化している
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7■東野芳明と宮川淳の見解の相違:
東野は結局のところ、この移行を
・アクション・ペインティング、アンフォルメル=「内的な表現の極限まで押し進めた果てに現われたもの」
・反芸術=「日常的な物体や記号や卑俗なイメージを通して〈事実〉の世界の骨格を回復しようとした動き」
という、
「内から外へ」「主観(自己表現)から客観(リアリズム)へ」という図式によって捉えてしまっている。
対し宮川は、
・アクション・ペインティング、アンフォルメル=「マチエールとジェストとのディアレクティク」によって、表現過程を自立させようという試み
・反芸術=「客観的なリアリテの概念の否定」、つまり近代的なリアリズム概念を成り立たせていた「主観(描く主体)/客観(描かれる対象)」という図式それ自体の崩壊
と捉えたといえる。
8■補注
A:「アクション・ペインティング」=絵画を行為に還元する
→表現の自己目的化
(「〜を表現する」のではなく「表現するために表現する」というトートロジーが成立することの困難)
B:「カラーフィールド・ペインティング」=絵画を絵画の特質たる平面性に還元する
→絵画の自己限定
※Aはハロルド・ローゼンバーグ、Bはクレメント・グリーンバーグが推進
宮川は前者に依拠しつつ論をすすめていることに注意