去年読んだ漫画だがあまりの完成度の高さに驚愕し忘れられないのが、岩館真理子の「月と雲の間」という本だ。
この本では、「月と雲の間」と「いつか、どこかで雨の日に」という2つの短編が収録されている。そのどちらもすばらしいが、「いつか、どこかで雨の日に」という20ページほどの短編は、岩館真理子がいかにすごい漫画家であるかということを遺憾なく発揮している傑作と呼べるものだ。おそらくあのくらもちふさこでさえこの漫画の前ではひれ伏すことになるだろう。
そこでは岩館真理子が「キララのキ」で失敗した問題をすべてクリアーしているように思える。
非常に軽く滑らかに展開されるこのコメディーは、小さな街の小さな神社の中で偶然出逢った、明日晴れを願う青年と明日雨を願う青子という少女との会話によってほぼ成り立っている。
2人はそこで初めて出逢うのであり、お互いがお互いのことを知らない。
それはまるで黒澤明の『羅生門』に近い設定だといえるかもしれない。
そういった中で彼らが繰り広げる会話は、嘘なのか本当なのか、実在するのかしないのか、2人はいったいなにものなのか、読者にも、2人にも、わからないまま話が進んでいく。
物語というのは考えてみれば、フィクションという括弧に括るにしても何かしらの前提を信じてなければ読めないものである。しかし、フィクションの前提は、本当は作家が作り上げたものでしかない。根拠がないにも関わらず暗黙の了解のもと作者と読者の契約が結ばれる。それによって初めて存在しない人間が読者の中で存在し確立され始めるのだ。
この普段の自分を知らないお互いの会話が、読者が物語を読むときに不可避的な構造「物語を読む=前提を疑うにせよとりあえず信じる」ことの鏡のようなものになっている。
物語は嘘だ、虚偽だといえば、そうかもしれないが、それはあまりに使い古された問題意識と言っていいかもしれない。そういった中で、岩館真理子が描くこの作品は本当のことと嘘を不可分にすることによって(そして前提が既に根拠のない嘘なのだから、物語の中での嘘と本当とは実はフラットに存在しているのだということをこの物語は教えてくれる)、この物語ではいったい何が本当に起こったことなのかを宙づりにしたまま、同時にすべての出来事・要素が、物語として統一されることがないにせよ、本当に起こったかもしれない可能性として読む者の中で消せないものにすることに成功している。
この岩館の手法が決して真新しいと言いたいわけではない、ただこの得体の知れない2人の人間のとんでもない会話が、本当に滑らかに様々な位相へ変換され移動していくこの巧みさがすばらしいのだ。あるときは天女、あるときは蛙、あるときは幽霊、あるときは多重人格者、あるときは過酷なフリーター少女、あるときは神様、あるときは普通の高校生と、何気ない現実が高速に変幻自在にまったく見え方を変え、それが明らかに破綻しているように見える、にもかかわらず破綻を免れている物語の結び目の作り方がすごい。
しかし彼女が書く漫画は、詐欺師のように嘘にスムーズに没入させようとはしていない。登場人物の二人は本当のことを言っているとは言っていない。会話のどこかには虚言(本人が意識的なものから、無自覚的なものも含めて)が明らかに含まれているのだけれど、部分を見るとどれも嘘とは言いきれないわだかまりを、この作品は抜け目なく周到に用意している。自分は狐にだまされたようでもあり、けれどいったいどこがだまされたのかはわからない。その解釈によって、物語で起こったことは、読者の中でいくつもの有り様を持つことになるのだ。
とりあえず、今回は久しぶりにあらすじみたいなものを書いてみました。ネタばれありですが、興味があれば読んでみてください。↓