ここ何年か「ホテル・ルワンダ」などアフリカにおける非常に過酷な現実を舞台にした映画が多くでてきている。そういった作品を見ると、自分の想像力を容易に超える状況に圧倒され、見たあと言葉が出なくなることがよくある。それだけこれらの作品には有無をいわせぬ説得力がある。
「TIA」(ディス イズ アフリカ)それは『ブラッド・ダイアモンド』(2007)のなかで出てくる略称だが、なるほどこれがアフリカの一つの現実なのか。
90年代から確かにテレビのニュースで流れていたアフリカの内戦を、僕はこんな悲惨な現実が、まるで地獄みたいな状況だと認識しつつも、目をそらすようにテレビのチャンネルを変え、それ以上調べようとも考えようとも思わなかった現実を今さらになって思い知る。
それがこのようなかたちで映画化されそれを見ると、先進諸国の(自分たちの)無関心さによって防ぎきれなかったものの大きさというものを改めて痛感する。
他方でまったく違う考えも頭に浮かぶ。
なぜアメリカでここまでアフリカに関する映画が作られ、またアフリカの映画が評価されているのかということだ。
そして考えるのはアフリカのことではなくアメリカの歴史についてである。唐突に感じるかもしれないが、第二次世界大戦から多種多民族国家であるアメリカが抱えている戦争における一つの矛盾についてである。
戦争とは国民が一致団結して戦いに向かわなければいけないものである。そういった意識をアメリカは、今も必要としていないわけではない現実の問題として抱えているし、アメリカが大きくかかわった第二次世界大戦においても、もちろんそうであった。
真珠湾攻撃から始まった日本との戦争をアメリカは「人種戦争」と捉えていた。「イエローモンキー」といわれるように人間以下と考えられていた黄色人種との戦いとアメリカは捉えていた。
一方日本はアジアの「解放戦争」「反西洋帝国主義」、いわゆる「大東亜共栄」を掲げ、戦争を開始したのだ。(日本が侵略戦争といえる行い、その意識を持ってしまったことを隠蔽してしまう意味ではない。)
そのとき多種多民族国家のアメリカにおいて白人はともかく黒人を戦争へと赴かせるにあたって大きな問題があることはよくわかるだろう。
黒人もまた黄色人種同様に有色人種であり、白人によって支配されていたマイノリティーであったからだ。そのため黒人は、この戦争に赴くことに複雑な感情をいだかざるおえなくなる。
そのためベトナム戦争においても、有色人種に対する攻撃に黒人の複雑な感情は存在し白人よりも明らかに戦争に対する意識が低かったのである。
参考文献:岐阜大学助教授ジョン・G・ラッセル氏の「戦争責任とマイノリティ」
もちろん、国家がそれに対して対策をとっていなかったということはない。
第二次世界大戦時に作られた多くの戦意昂揚映画の中で、フランク・キャプラ組によって黒人のための戦意昂揚映画『黒人兵』なるものが作られたのだ。D・Wグリフィスの『国民の創生』(KKKが登場する映画)でもわかるようにそれまで映画の中で黒人は非常に差別的に扱われ虐げられてきた。この状況でそのような映画が登場し、上映されるというのは当時としてはかなりすごいであり、大変難しいことだった。(そのような状況下であったため黒人たちにとって、当時映画は侮蔑の対象でしかなかった。)
だがこの試みは、今よりもさらに厳しい差別があり、白人と同じように黒人を国家のために働く勇士として描くことは非常に難しく、逆に白人が黒人を人と認めアメリカ人として対等に扱うということの難しさが露呈してしまう。そういったなかで有色人種との戦いに対する矛盾消せるわけもなくこの映画の試みは、必ずしもうまくはいかなかったのだ。
(ここら辺の問題は加藤幹郎著「映画 視線のポリティクス」に詳細に示されているのでぜひ読んでみてほしい。)
アメリカが現在も関わっている民族間、宗教間の戦争において、この問題が解決されたとはいえない。実際2005年8月末に襲ったハリケーン・カトリーナにおける政府の姿勢や対応の遅さは、人種問題をナーバスに浮き上がらせ、イラクにおけるアメリカの政策に対する国民の考え方にも大きな影響を与えた。
さてそのようなことを考えてみると、アメリカ黒人にとって映画に描かれるアフリカの問題とはどのように映るのだろうか。
これらの映画が、今までの映画よりも同じ黒人の中で起こっている問題として、黒人にはより近しく重大な問題と感じるかもしれない。それは同じ黒人でありながら、国籍を意識し、常識では考えられない状況に事態の深刻さを痛感し、隣人愛的な意識を観る者に目覚めさす力があるともいえる。もちろんとそうした意識は黒人に限らない。少年兵や、女性・子供に対する暴行や殺戮、市民を制圧する組織は、アフリカに限ったことではない。西洋的な文化圏に属せず混乱した諸国を、アメリカが介入し、指導し、整備することによって、この最悪な状況を取り除くことを観る者に促すものとしてもとれなくない。
実際アフリカの人々の感情もさまざまで現実は複雑である。そしてこの類の映画の中では国連の存在は非常に無力に映し出されている。これを観れば低下しつつあるアメリカの国家的介入への信頼を回復させるものとしても、これらの映画は(たとえ意図したものでなくても)説得力を持つものではないだろうか。
とはいえこれらの作品を作る映画監督も安易なプロパガンダ映画にならないように非常に気を配っていることはよくわかるし、そういった映画監督たちでも反戦に対する高い意識を持っている人々もいるだろう。(もしかしたらほとんどの人がそうかもしれない。)しかし、政治的コントロールが起こるのは必ずしも監督などの制作側にあるとも限らないだろう。
そしてこうもいえる。たとえ意識的に作られたプロパガンダ映画であったとしても、ルワンダにおけるジェノサイドなどで、国連やアメリカが軍事介入しなかったことがどれだけの犠牲を作り出したのかを考える必要もじゅうぶんにあるということだ。
ただ、私たちが世界の最悪な状況に反応し、先進国の責任として、ある諸国に介入をおこなおうとしても、その多額の資金的・物理的援助を国家や国連もしくは企業に頼らなければ無力に等しい。
その上で国家や国連、企業の判断が大きな意味を持つ。だが国連は別としてもそこでは倫理的な問題や感情的な問題とはまったく別の尺度での判断材料がでてくるのだと思う。そのときうまれるねじれとは何か。たとえ国連であってもその判断にねじれが生まれるということは当然ありえるだろう。
イラン・イラクの問題、北朝鮮の拉致問題の例を考えれば誰しも感じる問題である。また他国が介入することによってそこにねじれが生まれ、二つの民族なり国家なりの軋轢がさらに深刻なものになるという可能性もある。我々が感じる善意や正義が、必ずしも予想どおりの結果をもたらすとは限らない。
多くの場合が予想外の事態が起こるものだ。そもそもそういった判断を誰ができるのかという問題もあるだろう。
そういった中で『ブラッド・ダイヤモンド』のエドワード・ズウィック監督がいうところの「娯楽」と「政治」が一致とはありないのではないのだろうか。娯楽とはすべてが観客の感情移入に従わせられるからである。政治的な問題はやはり心情的な倫理では考えられない問題が必ず起こるから、やはり感情移入を否定しなければいけないところというのができなければいけないのではないだろうか。
ゆえに娯楽映画は戦争が引き起こす矛盾に一つの飛躍を作り出してしまう、もしくは失敗として露呈してしまうのではないか。
先にあげた本の中で、加藤幹郎が面白いことを書いている。それは政治とハリウッドの娯楽性が一致しないがゆえに、ハリウッド映画は完全なるプロパガンダ映画としては失敗し続けたということだ。
アフリカの知らなかった複雑な歴史や状況は、いろいろな問題を考える上でも非常に重要な事柄に思える。ゆえにこれらの映画が注目されることは毒にも薬にもなる現象といえ、しっかりと見なければいけないのかなと考えている。

『ツォツィ』2006年アカデミー賞外国語映画賞を受賞。