スーザン・ソンタグの『良心の領界』(2004)を読んでみるとソンタグの理念的な部分とジョージ・クルーニー監督・脚本・出演の『グッドナイト&グッドラック』(2005)は共通、共鳴する部分があるようにおもえた。とくにその共鳴を感じたのはこの本のなかの『この時代に想う―共感と相克』(2002)と、『美についての議論』(2002)の二つだ。
『グッドナイト&グッドラック』の詳しい説明はここではしないので、興味のある人は下のリンクしたページをみてほしい。
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その理念的な部分で強く共鳴していると明確に感じた部分は3つある。
『良心の領界』では、9.11直後、以後のアメリカの姿勢にたいする批判と危機意識が中心となっている。それはしかし9.11のテロ事件を象徴的に扱うということではなく、むしろ象徴的に扱ってはならないという内容である。いまはアメリカでもブッシュの扇動的な発言やイラクへの攻撃にたいする批判の声は大きいわけだが、当時アメリカはテロリストやこの事件を冷静にうけとめることのできない危険な団結力がつよまっていたのは周知の事実である。ソンタグのそのような意識は、当時アメリカではつよい批判をうけ「オサマ・ビン・ソンタグ」と中傷されるほどだった。
この本の最初におさめられているシンポジウム『この時代に想う―共感と相克』(スーザン・ソンタグ、浅田彰、磯崎新、姜尚中、木幡和枝、田中康夫)でソンタグは、二つの事柄にふれるところからはじめている。
ひとつめは9.11が現代史における大きな転換点ではないということ。それはあくまでアメリカ側のレトリックの問題にすぎないということ。
もうひとつは「テロリスト」という言葉の使い方が、どのように利用されてしまうかということである。
「テロリスト」という言葉が使われはじめたのは19世紀末から20世紀初頭であり、「無政府主義者(アナキスト)」とも「アナキスト・テロリスト」ともよばれた。その使われ方を歴史的に振り返ってみると“二十世紀の大半をつうじて、政府以外の集団が行なう抵抗や武装した戦闘行動を指して、かなり勝手に使われてき”たのだ。そのなかには少なからず正当とよべる運動、組織があった。「テロリスト」という言葉が、政府によって利用された例として、ナチス・ドイツによるフランス占領時にフランスで立ち上がったレジスタンスに用いられたことや、また冷戦時に政府にたいする批判意識を持った者を無差別に「共産主義者(コミュニスト)」として吊るし上げた歴史的事実がある。それはテロリストとよばれる人たちの中で許しがたい犯罪や運動がある、その事実を擁護することではない。ただ「テロリストの運動」としまったときにおこなわれる単純化を危険視しているのである。ソンタグはその意味で非常に言葉を大切に考えている人だということがわかる。
『グッドナイト&グッドラック』で描かれているエド・マローの戦いは、ジョセフ・マッカーシー上院議員による「コミュニスト」という言葉の乱用との戦いである。政府と異なる思想を持つ者、反抗する者、批判する者、すべてコミュニストと罰した「赤狩り」との戦いである。その言葉の乱用にたいするエド・マローの冷静な論理的判断と戦略は、ソンタグの非常に慎重で論理的な言葉の使われ方、歴史的な背景にたいするじゅうぶんな配慮と共通した部分があると言っていいだろう。これが二つの作品に共通するまずひとつの点である。
次にあげるべき点は、この映画の中でのエド・マローの戦いがフランク・キャプラ監督の「スミス都に行く」(1939年)のような一人の孤独な戦いではないというところである。
エド・マローの戦いは、番組制作をおこなうスタッフとの連帯なくしては不可能であった。しかし同時に、安易な連帯は自分の批判意識をなし崩しにしてしまう。エド・マローの判断はその意識において間違いをおこさない。そこには極めて厳格な孤立と連帯の往復がある。マローは仲間であるドン・ホレベックにたいする誹謗中傷から彼を公のものとでかばう発言をしないことによって、自分が「コミュニスト」ではない立場からマッカーシーを追求している立場をゆるがさない。それはもちろん自らの保身のためではない。
彼がマッカーシーの行いを徹底的に批判するためにである。
ソンタグもまた連帯と孤立を行き来しなければならないという。孤立と連帯はともに必要なのである。テロ直後のアメリカにおける「我々は団結している」という言葉を痛烈に批判し、ひとつの警句を2度繰り返していっている。この言葉にこそ、マローの重要な精神が含まれているように思える。
「孤独は連帯を制限する。連帯は孤独を堕落させる。」と。
この言葉は、田中康夫が「孤立」(ソリテュード)と「連帯」(ソリダリティ)について語っていることに共鳴して語っているので少し長くなるがその言葉も引用しておこう。
“湾岸戦争のときに、私たちは「私は日本国家が戦争に加担することに反対します」という声明を出しました。亡くなった中上健次や柄谷行人、高橋源一郎や島田雅彦やいとうせいこうが最初に作った原文は「We……」というものでした。しかし日本語の「We」という言葉はイデオロギーを語っているようで実は何の覚悟もない、「We」の陰に隠れて何の責任も負わない言葉なので、したがって私たちはそれを書き換えて「I」としたわけです。
日本の左翼的な言説をファッションとして取り入れ、従米や属米になる事が日本の国体を守ることだと勘違いしているような新しい保守の人々は、学生運動のころに「連帯を求めて孤立を恐れず」と言っていました。僕たちはそうではなく「孤立を求めて連帯を恐れず」と言った。「私」があるということは他者との対話を拒むものではなく、むしろ「私」があるからこそ他者との対話も可能であり癒しも可能になるわけですね。”
そして最後のひとつは、『グッドナイト&グッドラック』という映画の、そしてその中に描かれている人々が非常に「ハンサム(立派)」に感じられる部分だ。
映画のなかにあふれかえっている「ハンサム」とは、けして外面の問題だけない(つまりへたな評価を受けやすい作家主義的なファッション映画とはまったく異なる)、内面の問題から生まれたものでもあり、そこには安易な共感や率直な反応とは異なる尊敬の念が含まれている。この映画においてハンサムであると感じるその感覚は脱政治的な感覚であるがゆえに、非常に政治的な働きかけを生み出している。観る者はこの作品のハンサムな部分に学ぶところは計り知れない。それは未知なるものだといっていいだろう。この映画が単に図式的な映画には終わっていないのはこのハンサムと感じさせる徹底的な魅力である。
この部分がソンタグが非常に慎重に語りだしていく『美についての議論』と共通した部分があると言えるのであり、ソンタグの可能性の中心ともいえるところではないだろうか。
『美についての議論』では、まず最初に性的陵辱を犯してきた神父たちの無数の事件を隠蔽した事実が明るみに出たことに関し、ヨハネパウロ二世教皇の発言の内容にたいする批判からはじまっている。その発言とは、教皇が神父たちの汚点を、偉大な芸術作品についた傷に喩え、それでも作品の美しさや偉大さが残るように、教会の美しさを弁明したことである。そこには、教皇が疑いをまったく持っていない芸術における高尚な美が存在し、かつ暴行をおかしたものを擁護するための美へ暴力的な置き換えが存在する。ソンタグはそこから美にたいする言及がはじまる。
「健康」という言葉と同じように議論の余地のない素晴しさを意味する美、しかし美のもっとも明白な属性として恒久性を借定することができないなかで美を不朽性のものしようとする行為のなかには、観念的な補強やすり替えが大々的に行われてきた。そこにはさまざまな歴史的に重大な問題、悲惨な結果がはらんでいる。
そしてまた美を借定する、定義する事の挫折と不可能性があり、その歴史から出てきた相対主義的な価値観がある。ソンタグはその相対主義的な価値観にたいしても冷静に批判している。美の挫折が、判断という観念そのもの威信が失墜したことを映し出している事実についてだ。それは、美しいということを規定できないと同時に、醜いと指摘することがどんどんタブー化される状況にある。そしていまだ見出されたことのない美として醜悪なものの中からも美が見出されてしまう。そこには消費主義という強化されていくイデオロギーとの共犯関係をソンタグはみてとっている。
美が差別化の原理であり、専制的な性質を持っている、そこにはらむ危険性は計り知れない。それを回避するために代わりに使われる「面白い」という言葉がある。しかし、面白いという言葉に秘められた意味は思慮深さではなく、率直な反応であり、尊敬ではなく無作法な図々しさだ。ソンタグはまた面白いければ何でもよいという肯定を批判し、またその「面白い」の反対にある「退屈」という言葉、その言葉を使ってナチスへと入党していったカール・シュミット(「自由主義は退屈だ」)に事例を挙げて「面白い」という肯定の意識にある危険性を見ていき批判がなしている。
美の危険性を十分に考えつくしながらも、美(不朽の美や人を圧倒させる美ではなく、はかなく脆い美)というものが教えてくれるもの、その必要性を語る。『グッドナイト&グッドラック』の慎重に考え抜かれた判断と共鳴するものだとおもうし、はかなく脆い美とはセンチメンタルでナルシスティックもしくはロマンチックなものではないということをこの映画は共鳴しながらそれを証明していると僕はおもう。
ちなみにこのソンタグの本を翻訳している木幡和枝さんは東京芸術大学先端表現科教授であり、1985年よりP.S.1Contemporary Art Center/MoMA客員学芸員、88年よりアートキャンプ白州事務局長を務めてられている方だ。また翻訳したのは他に 岩波 世界の美術の「コンセプチュアル・アート」などがある。今年の春丸の内で行われた「ART AWARD TOKYO 」の審査員をされていた方でもある。
この事からもわかるようにソンタグの『良心の領界』には美術の問題が含まれるのだと考えてみる必要があり、自身にもつき返す必要のある問題だ。私たちが日常に行っている「作品の判断」というのも、この本で語られていることとまったく無関係ではない。さらにいえば私たち作家を評価している言説というのも、このような批判や言説があって行われているのである。とはいえ、この本が作品制作における武器になってくれるわけではない。作家の制作は堕落しないためにもひたすら孤独な作業といえるだろう。
