いつもかんからかんのかあん読んでくださってありがとう。そして、紹介までしてくださってありがとうございます! アクセス解析のリンク元で知らないところから急に50もアクセス(第3位です)あり、なんだろうと辿って来たらここでした。思わぬ方に読んでもらってると思うと嬉しいです。
さて、このブログで知ったので、今日カナと清澄のギャラリー見てきましたよ。暑い中、迷って反対方向さまよってタクシーでやっと辿りついたら、倉庫みたいなのに、たくさん人が来ていてビックリしました。でも、石川くんのがどこかわからなくて、下に降りようとしたら、ムサビのお友達に会えて教えてもらいました。この間、六本木でも迷った(笑)もっとオバサンにもわかりやすく、オレの作品はここだ〜!と自己主張してほしいなぁ。(笑)ちょうど現美で磯辺行久展を見て、かなりガツンとやられた直後だったので、ガツンと行こうぜ!ガツンと!とカゲキ・モードになってたからね〜。
http://kankarakan.jugem.jp/?eid=341
展覧会を見に行っていただきありがとうございました。また、コメントも書いていただきありがとうございます。それで自分なりにコメントの返信を書いてみようと思います。
ギャラリーの場所のわかりにくさは、美術は誰もが興味を持つものでもはありませんし、多くのお客さんがくれば良いということもありません(当然分かりやすい場所というのは土地も高いし、広い場所が確保することも難しい)ので通常のお店のような立地条件を第1にして決めていないと言えるのだと思います。だからギャラリーの条件に合ったところが分かりにくい場所になることが多いようです。けれども、そういう未開発な場所などにギャラリーができることは周りに他の文化的な環境が作られやすい条件ができるということもあり、もしそのような運動が起こってくるのであれば理想的だと思います。
たとえば、今は大きな施設を作りそれを中心にしてさまざまなものができ注目されていく都市開発が東京の中心的なやり方になっています。六本木にしても、お台場にしても、汐留にしても、銀座にしてもそういったことが競って作られていくような気がします(美術も少なからずのその運動に加担していますが)。けれどもそうではなく、小さくても文化的な魅力によって人が運ばれてくるということには1つの可能性とも考えることができます。そういうふうに考えられていくのであればギャラリーの場所も面白いですが、そのようになるほどギャラリーが面白い場所で面白い機能をしているとはまだ言えませんので、わかりにくところにあるということをそのまま了承して頂く以外ないのがギャラリーの現状です。それは誰が悪いということではないので。
しかし話は少しずれますが、東京の環境の作られ方以外にも大きな問題が見えるところが沢山ありますね。僕の実家がある千葉市の街の作られ方は、目を覆いたくなるほどひどいものです。実家周辺の環境は、目を疑うほどつまらなく色彩に乏しいものにどんどんなっていきます。空き地は消え雑木林もどんどん消えていき、無機質な集合住宅がどんどん建っていきます。千葉市の刹那的で殺伐とした都市の作られ方は、明らかに人間の感情にも大きな影響を与えるはずです。
この前かんからかんのかあんさんがいる新木に行きましたがとてもきれいで静かな街だなぁと思いました。僕自身がそうでしたが、広くて大きな公園や森、空き地、山などが子供の想像力に与えるものは絶大だと思うのです。僕の実家周辺の開発者や企業はそのようなことを考えることなく、かつては多くあった森を完全に消し、ダイエーという巨大なスーパーが1つあるだけの全く恐ろしい環境が作らています。僕が今住んでいる周辺の小平、国分寺、国立などは千葉に比べてとても環境の作られ方がうまいと思います。それは玉川上水などがあるのが大きいと思いますが、文化的な意識も高いし魅力的なお店が集まってくるような環境ができているように思います。
話がずれましたので戻します。ギャラリーの場所ではなく、展示場所がわかりにくいところにあったことはまだまだ自分がペーペーなのですみません。実力を上げて展覧会のメインとして分かりやすい場所に作品を発表できるようがんばりたいと思います。
現代美術館のでっかい空間と磯辺行久のような環境芸術のスケール感や迫力と勝負するのはかなりなことでもありますが。
さて本題の自分の作品はどうだったのか?と考えると僕の作品はまだまだ現代美術の文脈の中からはみ出るような作品が作れていないのは確かだと思います。その意味で僕はまだカゲキじゃない事を自覚しています。とはいえ、一様なカゲキさ、アナーキーさでは意味をなしません。自分には自分なりのカゲキさを見つけなきゃいけないと思っています。
この問題は単に自分の実力だけが問題ではなく、自分は誰が観ても強度を感じるような迫力ある作品を作りたいとは思っていないところがあると考えています。それはもちろん作品の買い手であるブルジョワ階級だけにむけて、もしくはある美術的知識を共有している知的階級だけに作品を作るということではありません。ただ、僕が選んだ主題にせよ、技術にせよ、それはわかりやすさや感じやすさ(泣けるとか)、見つけやすさを一番の目的として作品を作っていないというところがあるのも一つの理由だと思います。
自分が従来の作品の強度とは違うところで作品を作ろうとしているところがあるところもあるのです。作品の中にあるものではなく、作品の中にないものというのも僕の作品にとって大きな意味を持つところがあります。なぜそれをしていないのかというところを考えていただかなければ僕の作品が伝わらないところがあるかもしれません。それは排他主義的に作品を考えているわけでなく、わかりにくい場所に在っても自分のコンセプトをしっかり持って経営しているお店に例えることができるかもしれません。
国分寺駅の近くのわかりにくい場所に(笑)「でめてる」という定食屋があります。そこで以前ご飯を食べたのですが、味が派手ではなく、いわゆる誰が食べてもおいしいということもなく、安くもありませんでした。それは自分が食べる前に期待したものではありませんでした。この料理が従来のレストランなり定食屋で作り出される料理にあって、ここ出ててきた料理にはないものがはっきりとありました。それは料理に対する根本的な概念が違うのです。けれどもこの店は明らかに従来の従来のお店とは違うコンセプトで食材、味付け、品目が考えられていることがわかりました。味が濃かったり、おいしさだけを追求したようなおいしさとは違う別のレベルのおいしさと満足感がありました。それは美味しんぼにも近いような味覚の教育ともいえるでしょう。
http://www.comiresu.org/comres_6.htm
このホームページを見れば一目でわかる通りですが、食べる人たちに食事とはどのようなものなのかを考えさせるような料理でした。店に置かれた家具から、店の奥に張ってある憲法九条の護憲を訴えるポスター、店にある本棚、そして店の人から伝わってくる印象が意識的・無意識的であれコンセプトを感じました。
それはある人たちにとってはつまらなさを感じるかもしれません。外食とは特別なことであり、栄養や健康や食材の生産過程の問題よりも、夢や特別な感じを味あわせてほしいと思う、もしくはチェーン店などの安くて安定した気軽な店が良いと人々の欲求や感情はさまざまです。もちろんさまざまであっていい。僕自身も(おそらく普通の人以上に)外食特有のおいしさを求めたり、分かりやすい場所にあるチェーン店の気軽さを求めます。けれども自分がもし店を作るとしたら、店舗拡大や利益だけを求めて店を作るのでなければそういった消費者の欲求に合わせるだけで店のコンセプトを決めるわけにはいきません。店を作ることは自分の理念に関わってくる問題ですから。多少客を限定したとしても自分の店を考えるものですよね。同時にそれは閉じているということではなく、意識としては開かれながらも、現実的には閉じているものとなるということです。
僕はまだ「でめてる」のような徹底した態度も、技術も出来上がっていません。それはこれからがんばっていきたいと思います。ですからもちろん僕も強度や伝わりやすさを無視しているわけではありません。磯辺行久が表現を大きく変えていったように根本的に考えていくと流通形態を見直すというところまで考えなければいけなくなるかもしれないので、そういうことも含め強度をつけていくことは時間がかかることだと思いますのでそれまで応援とご指摘の方よろしくお願いします!ただ現時点の僕の作品の弱さが単に実力不足、野心の足りなさ、自己主張の少なさだけではないではないことも書いておこうと思いました。それは一般的に言われるような作品の強度(満足感)とは、別のレベルで作品の可能性なり思想を作り出しているからです。
長くなりましてすみません。かんからかんのかあんさんに言い訳かもしれないのに偉そうなことを書いている自分が恥ずかしくもありますが、自分も自分を信じて模索しているのであえて大人げなく書いてみました。