金銭についての映画は、どれほど暗黙にであってもすでに映画中映画、ないし映画についての映画である。
金銭とは時間なのだ。運動が、交換の総体あるいは等価性、対称性を、普遍のものとして仮定している事が本当だとすれば、時間とは、本性上、不等な交換の共謀または等価性の不可能性である。この意味で、時間は金銭なのだ。
(ジル・ドゥルーズ)
ジャック・リヴェットの『美しき諍い女』は、「労働」をめぐる映画であり、もしくは労働から発生する「交換」についての映画だと言える。その意味でこの映画は観る前から始まっている。なぜなら4時間という非常に長い作品であるこの映画を観るということはかなりの気力体力を使う事になるそれは一つの労働に他ならないからだ。同時にこの映画を観るためにお金を支払っているからだ。
この映画を観ようという時にいったい観客は何を期待しているのか。何が交換できると期待しているのか。エマニエル・ベアールの官能的な裸か、それともバルザックの「知られざる傑作」という有名な小説の物語だろうか。それとも絵画をめぐる哲学だろうか。しかし、予告編などの前情報から観客が期待するものはおそらくことごとく裏切られ映画を観終わって残る感覚は物語でもポルノグラフィーでもないなにかだ。そしてそれは間違っても絵画や芸術の哲学的な真実でもない。
この映画にそれらを期待した人たちは、未完の作品「美しき諍い女」を観たいがために自分の恋人(マリアンヌ)をヌードモデルとして画家エドワール・フレンホーフェルに差し出したニコラがその絵を観た時のように苛立ちこの映画を軽蔑するだろう。観客は、支払った金額や時間に見合わないつまらない映画だとののしりたくなるかもしれない。しかし、ジャック・リヴェットの陰謀は違うところにあり、彼はこの作品で見事にそれを成功させている。これは「労働」をめぐる「交換」についての映画であり、その「交換」は不等であり、等価性を持たない。それは、たとえば画家とモデルの、画商と画家、観客と監督、監督と企業の非対称性が浮き彫りとなるからだ。ゆえに、ここでは残酷な「裏切り」の連続がたち現れる。映画の中の人物たちの裏切りはすべて悪意がないがためにさらに残酷であり深刻である。そしてこの映画におけるユーモアのある悪戯と不可避的な裏切りの境界は存在しない。
しかし、この映画が自然に囲まれ非常にのどかな風景の中、フレンホーフェルは非常に裕福であり、「労働」という概念からは遠い存在のように感じるかもしれない。だがこの映画では、みな仕事に従属しているのだ。画家とモデル、120キロ離れたところから何度も往復する画商はもちろんだが、画家の妻(リズ)はたとえ趣味であるとしてもお菓子作りや剥製の制作などで絶えず仕事を勤しんでいると言っていい。また、自分の恋人を画家の下へと送り出した若き画家ニコラもホテルで恋人の帰りを待つというだけではあるが、彼は自分の仕事のために恋人をヌードモデルとして差し出し、その罪と後悔の葛藤に苛まれている時間はまさに労働の一部であるということが言えると思う。彼は4日間なにもできずホテルに拘束されている感じをこの映画はうまく描いている。また、子供たちは手伝いに駆りだされる。
ニコラを心配して訪れたニコラの妹ジュリエンヌだけが仕事にまったく携わっていないのだ。(彼女は海外での仕事を紹介されていて、やるかやらないか考えているところである。)それが彼女の行動、移動のあり方を特別にしていると言える。ほかの人間は仕事に従属するのであり、行動が規定されている。彼らは一つの場所にとどまるか、もしくは二つの場所を往復し続けるのだ。(この映画のロケーションが、ホテルとフレンホーフェルの家の二つ建物しか映しだされてないのはそのためだ。)フレンホーフェルであればアトリエと寝室、マリアンヌはアトリエとホテル、ニコラであればホテルであり、画商のポルビュスは都市とフレンホーフェルの家を、リズは家であれこれと仕事をしている。後から来たジュリエンヌは、「美しき諍い女」が作り出した関係性の外にいる人間であり、「よそ者」である。彼女は「よそ者」ゆえに彼らに受け入れられ、従属してないがゆえに媒介になれるのだ。
しかし、ここで描かれる労働とは特殊である。彼らは生活のために仕事を行っているわけではない。ポルビュスを抜きにしてほかの人々は金銭的な利益のために労働を行っているわけではない。彼らはすべてブルジョワジー(きわめてヨーロッパ的な)なのだ。(ここがブレッソンなどの金銭の考え方と大きく違うところだ。)そういった上で労働は単なる仕事以上の存在として彼らの中にある。アトリエが異常に厳しくも魅力的な空間を作り出し描かれている事、それに対して寝室が狭く重苦しく感じられる事はこの映画にとって非常に重要な意味を示している。そして、そのどちらにも属さないバルコニーが明るい光に包まれ非常に開放感を持った開かれた空間を作り出していることについても考えるべきところはかなり大きい。
ただ「労働」と言ってもそれは人によってまったく違う意味や関係性が作り出されていることがわかる。特徴的なのはこの映画の中で男性は芸術や経済などの超越的なものに対して従属し、女性は超越的なものを想定することなく労働する事しているところがある。
また、子供の手伝いとは完全に大人の意思・仕事に従属して行われる。子供は意思を持たず手伝うのであり、ゆえに安定した共同体が成立する。これがモデルと画家との対比になっていると言えるかもしれない。では、画家とモデルの関係とはいったいどのようなものであるのか。これは映画を撮った事があるものであれば、もしくは人をモデルとして描いたことのある人間であればわかるかもしれないが、画家とモデルは、体は向かい合っているとしてもまったく違うもの位置から見ているのであり、非対称的な関係性になっている。
ここで例として通俗的な映画によくある凡庸なキスシーンを想定してほしい。それはキスをしようとする二人の顔を真横から撮ったショットだ。二人はまさにお互いを愛し合い、キスを求め合う。そこには、二人の非常にシンメトリーな関係性が象徴的にたち現れている事がよくわかる。つまりこれは二人の交換の等価性を象徴するかのようなショットだと考えていい。しかし画家とモデル(監督と俳優)の関係というのはこのようなものではない。画家とモデル(監督と俳優)の契約を結ぶ事によって、画家にとってモデルとは絶対的な他者となり、モデルにとっても画家は絶対的な他者となるのだ。だから優れた監督は、キスをする二人を真横から撮るという事は絶対にしないし、それが倫理的な問題になりえるのである。
しかし画家とモデルの間で作られるのは一つの作品である。単にバラバラでは何も作れない。作家もモデルも作品を作り上げるということに集中しなければならない。そこには孤独で真剣な共同作業が生まれなければいけないのだ。しかし孤独で真剣な共同作業とはいったいどういうことだろう。
マリアンヌはニコラに裏切られながらも、自らの意思でフレンホーフェルのもとに赴いた。彼女には変化が起こる。受動的な姿勢から、仕事に対して能動的に考える事ができるようになる。彼女はそこで少なからず充実感を得られたと感じる事ができただろう。なぜなら、画家とモデルが同じものを目指しているように感じるからだ。それは理想的な共同体が作り出されると言う事である。しかし冷徹な批判意識を持つリヴェットはそれで成立させるわけがない。それはマリアンヌの思い込みに過ぎないと冷笑を浮かべるかのようにフレンホーフェルとの意識の断絶をうまく描き出している。フレンホーフェルはそのように意識のもと仕事をしていないのだ。画家はモデルに耳を傾けず、目を向けるのだ。フレンホーフェルにとって従属すべきものは芸術であり、真実である。ゆえにマリアンヌの意識ではなく存在にだけ目を向ける。その自身のまなざしにフレンホーフェルも完全に自覚的ではない。妻であるリズだけがフレンホーフェルのそのまなざしの暴力性を理解していると言っていいかもしれない。それはピカソが画家とモデルの絵で描いている暴力性である。そのことをリズはマリアンヌに絶えず忠告している。だがマリアンヌは、最後に絵を見るまでそのことに気がつかない。しかし、最後にマリアンヌは完成された「美しき諍い女」を観てフレンホーフェルとのまなざしの非対称性について気がつくのである。つまり彼が見ていたものを観る事によって。彼女はその絵に大きなショックを受ける。それは、彼女がフレンホーフェルに利用された事を知ったからではなく、描かれていたのが間違いなく自分だったということなのだ。それは自分がモデルとして想定していた自分とそれを行っていた自分の意識と存在のズレにおいてである。
この映画においてマリアンヌがヌードになる事は裸になる事ではない。それは、リズが仕事をするときにエプロンをつけるのと同じであり、仕事着に着替えることと同じなのである。だからこの映画の中でマリアンヌ演じるエマニュエル・ベアールの裸は官能的ではないのだ。そして、彼女は裸の自分をフレンホーフェルの絵によって見せつけられたといっていいだろう。
そして私たちは、完成されたその「美しき諍い女」を見ることがなかった。それは、ヌードは見たがマリアンヌの裸を見る事がなかったことを意味し、リズはフレンホーフェルのその行動を評価する。ジャン・ルノワールが絵画でそれを示さないし、こんな物語も作りはしないが、彼ならその瞬間を必ず描き出し、見ているわれわれを驚愕させるはずだろう。
ここにリヴェットの一貫した姿勢を読み取る事ができるのではないだろうか。映画は「美しき諍い女」が隠されて終わる事により急速に閉じる事になるのだが、彼の映画における観念的な遊戯性と映像のリアリズムの対立を宙吊りにすることでもある。彼はどちらかを選ぶ事はしない。その意識が映画で極めてねじれた時間を作り出している。この映画において、真実と嘘、ドキュメンタリーとフィクションの境界は存在しない。この映画のエンディングはそれをうまく体現しているように思える。
なるほど、フレンホーフェルが言うように「絵画に言葉は不要だ」。アトリエの中で絵が描かれる時、モデルと画家も黙り、われわれは描かれる線に集中し、紙がこすれる音に耳を傾ける。そして映像は従来のようなフィクションを逸脱し、物語という前後の時間から開放され、それ自体として価値を持つような時間を作り出している。それは虚構の時間を忘れてリアルタイム(美しい現働的イメージ)が湧き上がっているかのようである。しかし、奇妙なのはこれがけして映画の中に流れる時間を中断させているわけではないことだ。それはこの映像の中に明確に刻印されている。このドキュメンタリーと取れるような素晴しい音声と映像の中には確かに、潜在的なイメージが組み込まれている。
アトリエの中では、10年前に一度断念した「美しき諍い女」という未完の作品を改めて作るためにドローイングとエスキースが繰り返し描き続けられる。そしてかつて描かれた絵、キャンバスを画家は運び、裏返し、再配置しなおし、ドローイング帳はめくら過去のドローイングは見直される、また再び、新しい線が紙の上に書き込まれていく。そして「美しき諍い女」は10年前にリズを描いて断念したキャンバスを塗りつぶしながら始められる。そこでは、画家がモンタージュのように時間を再編成しているのであり、この映画が現働性の中に極めてたくみにフラッシュバックを作り出しているのだと言えるだろう。