ジャン・ルノワール監督は「大いなる幻影」(1937年)をある意味でまだ古典的な意識で作り上げている戦争映画だということができる。ルノワールの素晴しい飛躍力がまだ生まれえていないということで、それをルノワール自身も自覚していたであろうという意味でこの映画が悲観的という解釈もわからないでもないが同時に、彼がそれでもあえてこの作品を作ったという事、形式における着目点=思考方法は、僕は何かを考え始める上で大きな意味と可能性を秘めていると考えている。この映画は1939年から始まる第二次世界大戦直前に作られた映画だと考えてみれば驚くべき事でもある。この映画の企ては聡明でラディカルな作家による大いなる一歩なはずだ。
戦争というのは、国籍、民族、人種、年齢、性別などさまざまなフレームがはっきりとし分けられる事で生まれるもの(もしくは戦争が起こるからはっきりとしたフレームが生まれる)だと言って良いだろう。それによって敵対関係、征服と被征服、連帯や分裂などが生まれる。
この映画が舞台となっている第一次世界大戦は、きわめて国家的な対立、国家的なフレームによって作り出された戦争だった。つまり階級社会が終わり、国民国家という近代的な意識が成立したところから始まった戦争だという事が言える。
戦争によって職業軍人に限らずさまざまな階級、人種の人間が徴兵として集められるなかで作られるグルーピングは無数にある。 この映画の中心的な役割を担っている人物も、貴族階級のボアルデュ大尉、労働者階級のマレシャル中尉、裕福なユダヤ人ローゼンタールとまったく違う身分の人間の間での交流が生まれる。それは捕虜ということもあり、彼らの交流は身分の違いは無効となりきわめて対等な位置で行われる。(こういうことは近代以前ではありえなかったと言えるのだろう。)しかし、身分の違いはさまざまな価値判断の違いや偏見を作り出しており、みな同時に孤立もしていて問題はそんなに単純ではない。しかしルノワールが描きたかったのはそれでも愛(友愛)は生まれるということである。
ルノワールのこの映画は第二次世界大戦がまさに始まろうとする中での反戦映画だ。この映画は戦争が作り出した国家間の対立という大きなフレームを解体する企てによってそれをなそうとしている。そういう意味でこの映画では驚くほど多種多様なフレームを作り出し、国家というフレームを解体している。(捕虜の部屋に張ってあるボッティチェルリの「ヴィーナス」やイコン画など「女性像」ということ以外まったく無関係なコンテクストの複製画たちはそれをうまく象徴している。)
しかしただ単に複数のフレームを作り出しただけでは問題は複雑になるばかりだ。作品は硬直し難解になり、戦争が作り出すフレームを解体するという事は難しい。ルノワールが素晴しいのはきわめて映画的な手法、形式でもってそのフレームの越境を、フレームの複数性を見せているのである。この映画が音響・音楽の洪水と言ってよいほど満ち溢れているのはそのためだ。この映画において音や音楽はさまざまな意味を作り出している。
軍隊を束ねるための笛やラッパと、独房に入れられた者が吹くハーモニカと、囮となりドイツ人をひきつけるためのリコーダーはまったく異なるものとして響いてくる。歌や楽器は、軍隊を束ねるため、娯楽のため、反抗のため、生きるため、気晴らしなどのさまざまな手段として用いられ、それによってまったく異なるカテゴリーを作り出す。
それはこの2つの台詞の対比でも良くわかるだろう。(この台詞だけを抜粋すると説明的になってしまう事は否めないが)
一つ目はマレシャル中尉たちがドイツ人たちの行進を観て、マレシャルはその不快感こう表現している。「楽器のせいじゃない足音だ。」
それに対しマレシャル中尉たちがドイツ人収容所から脱走し、かくまってくれた戦争未亡人であるドイツ人エルザに別れを告げたときのエルザの台詞「あなたにはわからないわ あなたの足音が聞こえる幸せは。」
この二つは同じ足音であっても、その響きの違いがまったく異なる意味を形成するということだ。
このように台詞でも音が重要なキーポイントとして表現されるが、実際に音は非常に意識的なバリエーションとして使い分けられその意味作用を変える。
また、言語の使われ方も特徴的である。ボデュアル大尉と同じ貴族階級のドイツ人収容所長ラウフェンシュタインの友情が描かれている。彼らは敵国同士ながら同じ階級の人間であり、同時に貴族階級とは近代的な動きによってなくなろうとしていることを共有しているからである。その中でラウフェンシュタインは、ドイツ語、フランス語、英語を使い分け、それが彼の中の意識、葛藤を非常に的確に演出を作り出しているのだ。
このようにして音、音楽、言語の響きはこの映画においてさまざまな意味を立ち上がらせ、ルノワールはまるでロラン・バルトのようにこの状態において想定できるあらゆる音の活用方法や意味作用を洗い出している。
そういったなかで、マレシャルとローゼンタールはドイツ兵に危うく銃殺されそうになるが中立国であるスイス国境を越えることによって難を逃れて映画が終わるのである。
しかし、この時からまさに始まろうとしていた第二次世界大戦におけるドイツの非人道的な支配と虐殺に対して、この映画がたとえフィクションであってもまだ可能だった第一次世界大戦は人間性がまだ確保できたものだったろうと思う。
確かに今日においてこのような反戦映画は不可能である。しかし、だとしてもこの映画から考え始めることはまだ大きな可能性を持っていると僕は思う。
