「無頼の谷」は、ドイツからフランスを経てアメリカにやってきたフリッツ・ラング監督による西部劇である。この映画は冒頭の主題歌で示されるように人殺しと復讐の物語だ。

1952/アメリカ/90分
(左側からヴァーン、オルター、フレンチー)
この作品がどれほど評価されているのかいないのかわからない。ただ、地味な映画ながらもフリッツ・ラングの異様さが伝わってくる作品だった。
まずこの映画が西部劇特有の伸びやかさや、輝きといってもいいほどの色彩の明るさ、派手なアクションが、すべて抑圧され押しつぶしているという、ジャンルに対する意識的なずらしは、さして問題ではないだろう。
まずカメラとモンタージュのすばらしさ、硬質でありながらかも無駄のない滑らかなモンタージュとどれをとっても古典的かも知れないが美しく的確な構図はいうまでもない。独特の美術やセットの作られ方とその関係性、テクニカラーの色彩は美しくフリッツ・ラングの抑制されならがも優れた表現主義的なフィルムが見ることができるのもまた面白い。また、誰しもがこの映画で印象に残るであろうシーン、男性を馬にして女性が騎手を勤める競馬のシーンのゆっくりとした滑らかな移動と運動の表現は、その艶かしさに驚きを覚えた。
この物語は、「M」や「メトロポリス」、「死刑執行人もまた死す」などとは異なり、「無頼の谷」というタイトルどおり婚約者をレイプし殺した強盗犯を追う者は、どこまでもヴァーン(アーサー・ケネディ)一人である。
ヴァーンは復讐を遂げるためにチャック・ア・ラックという犯罪組織の内部に先入する。チャック・ア・ラックの中の誰が自分の婚約者を殺したのかわからない中で復讐に対する想いは口にされることなく、彼は目的遂行のために冷徹に着実に行動を行い続ける。
彼は任務が遂行されるまでけしてそのことを口にすることができない。ヴァーンの表情は非常に印象的で、観る者をも脅えさせるような冷たさと強さがあると言っていいだろう。
映画ではしばしば犯罪者は犯罪者らしく、つまり差別化されて描かれるが、チャック・ア・ラックの中の人間はすべて犯罪者であるゆえに非常に類的に描かれている。また犯罪者は仲間の中では陽気で明るく柔らかい顔をしている。その真の犯罪者ですら存在感は薄い。
しかしそれは、ヴァーンの言葉で示されるとおりチャック・ア・ラックの誰しもがその犯罪(婚約者をレイプし強盗殺人を行うこと)を犯す可能性を持っているからだ。
その中で、復讐を狙うヴァーンは黒ずみ汚れた顔の中で異常な目の輝きを作り出している。顔は奥へと沈み込んでいくのに、浮き上がってくるような目の鋭さ、その表情は観る者の中に強く残こる。犯罪者たちよりもはるかに怖い形相としてだ。
そのヴァーンの異様な表情の対比になっているのが、マレーネ・ディートリッヒが演じるところのオルターとその恋人であるフレンチー(メル・ファーラー)である。
デートリッヒは硬い表情でありながらも、陰影の少ない白くはっきりとした顔として映し出される。デートリッヒはいつもであれば妖艶で陰のある女性として描かれるであろうが、この作品の中では繊細でありがらも陰影のある女性ではない。
ヴァーンとオルターの対比を描写してみるとすれば、
ヴァーン:陰影が強く、黒く汚れたメイクを施すことによって顔が沈み込むようになっている。そのなかで常にギラっと光った鋭い目と激しく冷たい表情が浮き上がってくるように映されながらも、犯人を捜すために本心を口にすることはない。
オルター:白く陰影の少ないはっきりした顔として映し出され、表情の変化は微細ながらもそこで語られる感情は大きくやさしく正直なものだ。
またフレンチーは、やさしく冷静でそして悲しさに満ちた表情であり、どんなことが起こってもその顔を変えることはない。たとえ最愛のオルターが殺されたとしてもその表情を変えることはない。彼はいつかこのようになることを覚悟していたからだ。
この映画では、善と悪、もしくは復讐の無意味さなどのわかりやすい教訓的なメッセージはない。犯罪者、被害者、復讐を行う者、復讐に巻き込まれる者の誰の位置にも立っていない。これは「悲劇」以外のなにものでもなく、そしてこれは人殺しと復讐の物語だ。
ここでは、正しいと言える人間は誰もいない。チャック・ア・ラックのチンピラたちはもちろんだが、ヴァーンもまた復讐に狂いすべてを捨ててしまった人間である。オルターも、フレンチーももちろん犯罪集団の中心的メンバーとして犯罪活動に関ってきたわけである。
そういったなかで、この三人に観る者が惹かれていくのは何故だろうか。そしてこの三人の表情に感情を揺さぶられるのは何故だろうか。
現実においても絶対に赦せない出来事は存在し、それは取り返しのつかない現実つまり不可逆性が存在するからだ。正義などとは関係なく絶対に赦せいない者は復讐を遂行し、新たな取り返しのつかない現実が作り出される。
その徹底的な悲劇に対する人間のあり方が、3人の表情によって強く描き出されていたように思える。この悲劇は、そして彼らのアンビヴァレンツな感情は誰しもに起こる可能性を持った出来事である。
そんな起こってはいけないけれども、自分には絶対起こらないとは言いきれない悪夢(「飾窓の女」)、そして歴史的に見れば何度も繰り返されてきた悪夢を、作り出すのがフリッツ・ラングだと言えるかもしれない。