成瀬巳喜男監督による「浮雲」(1955年)を観た。最近「女が階段を上る時」(1960年)も観たがまぁすごい。この監督の作品は何本か見たが、あまり立て続けには見ることができない。なぜならホラー映画なんか所詮子供の遊びだといわんばかりの厳しさがそこにあるからだ。(まぁホラー映画はそこがいいところなんだけれど。)
とにかく成瀬の映画は見るのに覚悟がいる。その厳しさは溝口に匹敵するだろう。日本のベルイマンと言ってもいいんじゃないだろうか。途中で画面から目を背けたくなる時がしばしばだ。一人の女が現実に直面しながら、まるで海の漂流物のように徹底的に流され続ける。非常に現代的な徹底的な孤独。この系譜にあたる映画はさまざまな名作が挙げられる。
しかし、そういった悲劇と孤独は、ともすると見ている途中でばかばかしく思えてきたりするものだ。悲劇に必然性がなくなるとどうも茶番に見えてくる。しかし、成瀬の映画にはそんな退屈さがない。必然性を生むためには確実に地獄の歯車が必要なのである。成瀬の厳しさとは精密な地獄の歯車が確かに存在する。
そして「浮雲」は飛躍があり、複雑であり、映画は単なる悲劇としては収束できないとんでもない映画だった。おそらく、ジョナサン・デミは成瀬巳喜男を知っていたら大好きなんじゃないだろうか。
映画の技術的な問題でも、前半の現実と回想のモンタージュの切れ味は、今でも驚きをもってみることができる。そして不気味なほどに世界観を持ったセットと、ロケーションの撮影が独特のテンポで構成されている。これは「女が階段を上がる時」でも非常に面白く感じることができた。「女が階段を上る時」は、東京を円環のようにぐるぐる回りながら描きだされていくのが非常に魅力的だった。
「浮雲」での移動は、まるで放り投げられ続けているかのように移動が描かれ、ベトナム、東京、伊香保温泉、屋久島と移動が非常に多い設定になっている。もちろん当時の経済的な状況を考えれば本当に現地に行って撮影していないと思うが、セットやフィルムの表情も非常に豊かでみずみずしさを持っている。また何といっても光が美しい。非常に豊かな変化を見せながら、どのショットも光が映画を作り出している。
また高峰秀子という女優、この女優の存在感が、この2作品のフィルムには遺憾なく発揮されている。原節子は完璧で、本当は人間ではないんじゃないかと疑いたくなるような存在感を持っているが、高峰は非常に知性的で庶民的なイメージもありながらも、どんな役を演じても絶対的な透明感を持った存在感がある。なんと言っても「浮雲」の複雑な役を非常にたくみに演じきっている。にもかかわらずそれはけして大げさではない。表情の表面下で起こる感情のゆれがほんのちょっとだけ見える。そのほんのちょっとが大きな意味を持つように作られている。
