マーク・ダイオンのあるシュチュエーションを作り出しているこの作品。

Concrete Jungle (The Birds)
1992 Mixed media
59 x 165 x 51 inches
150 x 420 x 130 cm
博物館などに行くとよく見られる剥製や正確な模型などを使い、生態や環境などの状況を再現し演劇的に見せるような形式を使ってこの作品が作られている。
ここでは都市に出されるごみとそれに群がる鳥たちというわかりやすい図式を見て取ることができる。その展示方法とミニマルやアースワーク的な展示形式(ゴンザレス=トレスのキャンディーの作品を思い出していただきたい)をミックスしている作品だと考えることができる。
ごみを見ればその町がどのような町でどのような階層の人間が住んでいるかがよくわかると言われているが、この作品でどのようなゴミがあつめられているかといったことを考察することもできるだろうが、ここも彼なりのユーモアとフェイクが入り込んでいるように見える。
またカラスを頂点として、数羽の鳥がいるが、まるで鳥がゴミを管理しているかのようなユーモアも見て取れる。
さてこの作品と何を比較するかといえば、杉本博の博物館のシリーズが一番わかりやすいだろうが、ここはあえてGregory Crewdson(グレゴリー・クリュードソン)の作品を置いてみようと思う。

Untitled (Dead Fox with Grapes), 1994 C-print
30 x 40 in
こちらはマーク・ダイオンの作品とは違い写真の作品になっている。見れば誰でもわかるがブドウ畑で狐が死んでいて、三羽のすずめがその狐の死体をまるで自分たちが殺したかのように見ている。
ぼくはグレゴリー・クリュードソンは、写真に人間が出てこないころのシリーズが面白いと思う。人間が出てくると非常に凡庸な作品になってしまう。
なぜ初期の作品が面白いかというと、剥製という明らかにモノ化した動物を使って、一つの物語を作り出しているからだ。つまり剥製という内面も動きも完全に失われたものを使って、時間的な流れや出来事を作り出そうとしているその矛盾した作用がとても面白く感じられるからだ。
そして演技なき演出をこの作家が作り出す中で、作家が剥製を配置する行為、作家の人為的な暴力性がはっきりと見て取れるのだ。
また、マーク・ダイオンの「Concrete Jungle (The Birds) 」とグレゴリー・クリュードソンのこのころの作品の類似性は、自然を描きながらも間接的に人間社会の存在を同時に刷り込ませているというところにある。
グレゴリー・クリュードソンは、アメリカの郊外、もしくは田舎町の風景を使い、もしくは再現しながら、作品を設定している。
これらの動物のシリーズで一貫しているのは、不可解な動物の状況によって、異変が指し示されているということがある。そういった不可解な現象が、人間が住んでいるところのすぐ近くで、人間の目に触れない場所で起こっているということが指し示されているのだ。これはとても重要だ。そういう意味でこれをシャルダンの作品と比べることも可能かもしれない。
また、非常に局部的に示された状況であるにもかかわらず、世界の異変を指し示す一つの兆候、サインとして読めるようになっている。
二つの作品とも、人間社会と自然、フィクションとある現実的なリサーチを基にした再現が混在される中で、局部的なシュチュエーションが作り出されている。
しかし、あえて言うならまたしてもマーク・ダイオンは、物量の説得力と、安定した物語で作品の構造を支えてしまっている。たいしてグレゴリー・クリュードソンのこの作品はもう少し不可解な作品を作っていると言えるはずだ。
ちなみにマーク・ダイオンはグレゴリー・クリュードソンの作品がすごく好きだと言っている。