長い夏休み。ネット環境から離れていた自分。一度書かなくなるとどんどん書けなくなる。しかも最近脳みそがふやけ気味。うまくかけそうにないとは思うが書くことを再開してみよう。
9月14日から武蔵野美術大学の中にあるGFALで長沼基樹の展覧会が始まった。彼はいわゆるペインターだが絵を描く際、筆を使わずに自分の両手で絵の具とキャンバスを直接触り、まるで愛撫するように作品が作られる。
筆を使わずに手で絵を描くといった事はそんなにめずらしい事ではないだろう。手で描くこということが、まるで歌手が歌う際必ず裸足になるようなパフォーマンスに近いもので収束してしまうことがしばしばあるように思える。
筆を放棄し、手で直接絵画が作られることで、作品に危険なにおいを発するのはなかなか難しい。長沼の作品にはいまだ完成されているとは言えないが、しかし確かに危険なにおいがするところがある。それは彼が描かれているモチーフの凄みではなく、描くことの凄みを観る者に差し出しているからだ。だからといって、彼の作品は、情動や高揚感で絵の具が置かれていないことがわかるし、筆のように巧みに手を使い絵画を描き上げていない。痕跡とイメージという過去と現在性の時間的なズレが奇妙なねじれを作り出し、観る者の想像力にどのような刺激を与えるか。彼の方法論はそこに向けられている。
彼の作品を一見すると、明らかにオキーフが意識された図像、わかりやすぎるような花のイメージ、ボリュームが立ち上がっている。しかし近寄って作品をみると、それが手で絵の具をキャンバスに押し込んでいるように描いていることに気がつくことになる。
それは華やかな色彩で描かれた植物と思っていたものが、一変し作家の手の痕跡によって生理的な意識を刺激し、まったく違うものに見えてくる。また、そこではわかりやすい明確なボリュームやイメージが近くよると解体され手の使われ方や手の力加減など一つ一つの筆跡に意識が向かう。部分の強烈さが全体を見えなくする。
また、今回は不透明色地にたいしてカーマイン系などの透明色を乗せていくというよりも、粘度をゆるめにしたホワイトと、ピンクやカーマイン系の透明色の使い方が、今までよりも絵の具の重なりを複雑になっていたのも感じられた。地と図のあり方もマチエルが過剰でないににもかかわらず以前よりも巧みに作られてきていることがわかる。
彼の作品は強い具象性を伴いながらも、それを解体、転覆させるようなシステムを使って、一つの抽象性が導き出されている。
また、彼の場合、即興や探りながら手を動かしていくのではなく、部分部分での描き方(指や手での絵の具の押さえつけ方)を決めて作られていく。その方法は対象の形態や質感との乖離(反リアリズムな意識)が見られる。いまだそういったルールに恣意性や観念的な強さが消化、洗練し切れていないところはある。とはいえ、まるでフォービズムが対象の固有色から開放されたように、彼の作品は絵の具の置き方は対象との乖離と飛躍の強さを持っている。
いくつかの部分において、花の部分がまったく別な様相に見え(たとえば花びらが舌のように見えて)、それが絵の具の触り方と共鳴させ(その舌みたいな花びらをまるで自分の舌で愛撫しているような触り方)見るものの想像力を刺激する。
そういった部分と全体、触覚と視覚、描かれたものと描くことの、解体と成立の拮抗がまさに彼の作品の異様さであり、健全な変態さである。