展評を書くことから少し遠ざかっていたので、パラっと書いてみようと思う。
WAKO WORKS OF ARTで開かれていたLuc Tuymansの展示について。
http://www.wako-art.jp/
率直に言えばこの展示、非常に居心地の悪いものだった。一体何を見たらいいのかよくわからない。最近よく耳にするリュックタイマスの低迷のうわさは、なるほど理解できないわけでもない。何年か前のオペラシティーで開かれた展覧会を思い出せば、またカタログやネットで彼の最近作と過去の作品を見比べれば、作品が変化してきていることがよくわかる。
これを単に行き詰まりで片付けてしまっていいのだろうか、とも思った。基本的に他のジャンルにおいてもそうだが、単に作品として成功しているものだけを良しとしたくない僕にとっては、タイマンスをもう少し違う側面から考えたくもなるのだ。
海外のギャラリーでの彼の展示を見てみても、最近は著しく政治性や社会性が強く見える題材をテーマにしている。昔から社会性や政治性が、強いものがあったがもう少し抽象的であったり、プライベート的な感覚の強い画像の選ばれ方や切り取られ方があって、あからさまなものではなかった。2005年の作品で、ライス長官の顔を画面いっぱいに描いているものがあったのに正直かなり驚いた。今回の作品は、イエズス会をモチーフにしている。
また最近はシリーズ性もより明確になっていると言えるようだ。そうすることによって彼独特の不確かな空気感みたいなものが、そぎ落とされて来ているように感じる。
しかし、これは描き方にも問題がある。以前の画像を描くときの彼独特の省略は、画面に抽象性を与え不安定な画面を作り出していたのに対して、最近の作品は非常に作業のように普通に描き込まれている。
かといって、この展示がナラティブに見えたかと言うとそうでもない。描き方は非常に説明的なのに対して、展覧会全体を通しても見えてくるものが、かなり漠然としていて、よくいえば宙吊り感がある。
そして気になったのは、キャンバスの厚さだ。絵の具が薄く、説明的に描きこまれている絵に対してキャンバスがあまりに無骨に厚すぎる。映像的に見せたいのであれば、キャンバスの物質感、事物性は極力抑えるべきであるのに厚い。それをまるで意図的に採用したかのように、キャンバスの枠から画像がはみ出て描かれている。だから余計にキャンバスの側面にも目が行くことになるからだ。彼は作品を描く際にキャンバスを張らずに描き、その後に木枠に張るというシステムを採用しているらしいが、キャンバスの側面を見ると画像のフチは白い絵の具で整えているので、意図的に画像のはみ出しを残しているということになる。しかし、いったいなぜだろうか。
これは、彼が今までオーソドックスな絵画のうまさ、センスを持っていたペインターであるということを念頭に入れて考えている。
なぜ彼はそういった絵の技術的な部分を抑圧したのか。タイマンスは大きな絵を描けないという見方が強いが、昔は大きくても抽象度の高い不安定な作品を作り出すことができていたはずだ。
説明的な描かれ方、マチエルの希薄さ、キャンバスの厚さ、描かれてる主題の強い社会性、政治性と見えてくるものの宙づり感、漠然とした感じは、すべてが作用を打ち消しあっているように思える。
絵である必要があるのか、ここでは何か説明されているのか、と同時になぜ絵はこんなに説明的になっているのか、なぜキャンバスの事物感がこんなに強く出てしまっているのか、作品の落しどころがわからない居心地の悪さをこの展示で感じられずにはおれない。そこにあるのは徹底的な懐疑だ。
絵画ブームの火付け役であり、展覧会なども企画したリュック・タイマンス自身が、絵画の現在的なあり方について、否!、と強い態度を取っている。これは間違いなく美術の政治性だ。しかしと同時に、この懐疑、アイロニカルの先になるのは一体何か?
この作品が良いと言われようが、悪いと言われようが、リュック・タイマンスはおそらくつらい位置に立っていることには変わりない。これを行き詰まりということに大きな間違いはないと言っていいだろう。しかし、どこかでこの行き詰まりの意味を考える必要性が僕にはあると思う。